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連載エッセイ [42]
異常気象時代のサバイバル
吉野正敏

 
詩情と気候環境変動 ― 中国の詩歌から ―

 詩を吟ずるでもなく、詩作にふけるでもなく、詩の世界とは程遠い筆者だが、それでも青年時代に育まれた、「……秋の日の……ヴィォロンの……」という詩情は、年をとっても消えることはない。詩人の心情を理解しようという意欲はまだ持っている。サバイバルの極限において詩が人の心の中で果たす役割は無視できないであろうと、かねがね思っている。
 “秋が深まり、色付いた樹の葉が落ち始めると、やがて厳しい冬がやってくる”としか考えないのは、つまらない人達だ。。。。というようなことをゲーテが書いている。おそらく、眼や肌で季節変化を捉え、それがかもし出す詩情は人の心の動きであって、その表現が詩なのであると言いたかったのであろう。私もそう思う。
 秋は日本人にとってその到来・動き・効果が最も敏感な季節である。(写真1)は日本の秋の紅葉で、おそらくゲーテはもちろんヨーロッパの人たちには、モンスーンアジアの秋景色は想像できない美しさと私は思う。

(写真1)日本の秋の紅葉。岩手県葛根田渓谷、2015年10月17日、9時、吉野撮影。不許複製。

 この風景から詩情に至る過程に気候環境が関係するが、環境変動の強弱・性質の差がかかわる。当然、その人が生きていたのが古い時代か、新しい時代かによっても異なる。この2,000年間でも気候は温暖・寒冷の期間があった。そのため、詩情の気候環境も変化した。
 今回の連続エッセイは、ヨーロッパではなく、われわれモンスーンアジアの人びとの心に浸み込んでいる1例として、中国の「満目黄雲」という語の歴史時代における変遷を取り上げて、詩情と気候環境との対応を述べる。

唐代(618−690、705−907)の「満目黄雲」

 中国の古典詩文は政治性が強いと言われるが、唐代までの詩文に使われている「黄雲」の語は、瑞兆の意味の場合を除けば、“日の光を遮り、見透しを悪くするような雲”のことであった。今日の気象学で言えばダスト(砂塵・細砂)を含む煙霧層と考えられる。はるばると、詩人が西域の沙漠に行き、“数千里”を覆うこの黄色の煙霧層を初体験し、“現世界との離別・別世界の存在”に詩情をかき立てられたのであろう。唐代における人びとが「黄雲」と表現するのは、夕暮れの陽を浴びて輝く雲ではなく、煙霧層と解釈される。一面の黄色の穂が実る秋の稲田または麦秋の麦田とする解釈もあるが、発達した煙霧層とする考え(斉藤、2015)を私も取りたい。
 唐代の中でも、7世紀、8世紀初頭の最盛期の唐は中央アジアの沙漠地帯も支配した。西方からきた外国人も都にはたくさん住んでいた。乾燥した沙漠の気象・気候現象の知識もかなり高度であったと思われる。

北宋(960-1126)における「満目黄雲」

 北宋の王安石は黄雲の語をよく使った。稲田または麦田の一面に実った黄色の田をこう表現した。七言絶句「木末」に、


とある。この詩の訳は次のようである(矢田、2011)。北の方の山の霧が次第に薄れてゆき、木々の梢が見え始めた。南の方の谷川の両岸に生い茂る草の根元を清らかな水が流れている。「白い雪」(白い繭から紡ぎだされる生糸)を紡ぎ終えたかと思えば、桑は再び緑の葉を茂らせ、「黄色い雲」(黄金色に穂を実らせた一面の麦畑)を刈り尽くしたかと思えば、稲は正に青々と葉を伸ばす。
 白雪とは生糸のことであり、黄雲とは黄金色の麦畑(麦秋)のこととする比喩表現については、中国でその後、大きな議論があった(矢田、2011)。ここでは、その議論内容を紹介するのが目的ではない。作者が北宋の名宰相であった王安石で、彼の晩年の江寧(南京市)に隠居した時代(62歳、1082年)の作であることを強調したい。つまり中国の広大な地域の状況を熟知する者による詩作であり、北宋の時代の気候環境をよく反映した詩情を表現していると考えられる点である。

南宋(1127-1279)における「満目黄雲」

 南宋になると、黄雲は稲田を指す例が増える。詩人たちは田園の風景や農村の生活を詩で捉えることが多くなった。南宋の時代には江南の水田開発が極めて盛んに行なわれた。稲田を黄雲のほかに稲雲と表現する詩も現れた。江戸漢詩にもその影響が及んだ。少し脱線するが、今日、われわれは気象学用語の雷光を稲光(いなびかり)、雷電を稲妻(いなずま)というが、宋の時代あたりの表現が日本における語源の源流かとも思う。気象学史では古い時代(具体的な年代は不明)、大気中の電気現象と米作の豊凶とは関係があるとすでに知られていたとされる。

清代(1616-1912)の黄雲

 清の第4代皇帝、康 熙帝(こうきてい、在位1661-1722年)は唐の太宗とともに歴代最高の名君と呼ばれる。「御製耕織図」を作らせ、自ら詩を書いた。農事奨励の濃政の一環と考えられる。この詩に黄雲が出てくる。


訳せば、一面に広がる黄金の雲は夜明けの露も乾かせ、腰にさげた鎌で稲を刈れば日の光もよろこばしい。子供たちはそちこちで落穂を拾い、農家は家ごとに荷物担いで帰る。
 繰り返して言うが、この黄雲は黄金色に色付いた稲田のことであるという中国古典詩家の解釈に異論はない。しかし、気象学的に言って、陽が上り始める東の空に低く棚引く雲は晴夜の放射冷却による逆転層で出来る雲で、日の出後1時間くらいで消える。地上の露もその頃には消える。晴れ渡った空の下に黄金色の稲田が広がる。つまり、気象学的に現象を非常に正確に捉えている。これが、この詩情を人びとが受入れる要素の一つになっていると私は言いたい。

漢詩の詩情「満目東雲」と気候環境の変動

 法顕から玄奘まで200年、中国の北方と西域が非常に大きな変化をとげた。その中で 南北朝の紛争混乱、隋代の突厥人の新彊・蒙古への東進があった。唐代には西域の開拓があり、「大唐西域」の国家ができ上がった。
 いま、紀元後の中国における詩情に関わる気候環境変化をまとめると(表1)のとおりである。

(表1)中国における気候環境の変動と人びと

年代 国名 歴史的事実と気候環境

AD200−600 魏・晋・六朝 400年間北方民族が南方に攻め込み、南北朝時代を形成した。低温な時代。
7−10世紀 国力は、変動を伴ったが、非常に興隆。都の長安の人口は100万と推定される。10世紀半ばから気候悪化。
1000−1200 北宋・南宋 低温期に向かう。AD1200頃の低温な期間、北方民族の契丹、金・江・西夏・宋・蒙古人による元朝時代。華北平原の中国全体の人口比は約26%で、中国南部は約59%。 温暖であった8世紀頃は華北平原は約43%、中国南部では約39%。
1700年頃 北方の満族人が南下、清朝を建立。小氷期。


 このような気候環境の変化が「満目東雲」の詩情の変化にも関係したのであろう。

[文献]
斉藤希史(2015):満目黄雲. [漢文ノート、28]. UP(東京大学出版会)、第516号(2015年10月)、46−51.
矢田博士(2011):白い雪と黄色い雲. [語研ニュース]. 愛知大学名古屋語学教育研究室、第26号、8-11.


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