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暮らしの中のバイオクリマ

No.37

2013.05.29

吉野正敏

砺波平野の南よりの局地風 ―井波風・庄川ダシなど―

砺波平野の南よりの局地風

 日本の局地風の中で、富山平野・砺波平野の南風は有名である。人間生活とのかかわりも強く、古い時代からさまざまな形態で影響を受けて来た。バイオクリマの立場からはもちろん、民俗学や歴史学からの研究もある。
 5月半ば砺波市で学会があり出席して、現地の方々から最近の情報を入手したり、散村地域研究所を訪問して資料を探したりした。筆者がこの地域を最初に訪れたのは約50年前で、その頃を想い出すと、町は大きく様変わりし、発展した。一方では、井波風や庄川ダシや砺波平野の散村地域全体の南よりの風は依然として強く吹き、風の研究者として、現地への親しみは倍加した。今回集めた資料や見聞によって少し詳しく砺波平野の南よりの局地風について書いておきたい。

井波風・庄川ダシの認識

 井波年表によると、奈良時代の720(養老4)年、泰澄大和が八乙女山頂に風神堂を建てて井波に大風が吹かないことを祈ったという。その後、しばしば、風神堂の話が出て来るから井波風の知識や経験古い。文献として、著者・発行所は不明だが、大正5(1916)年4月の印がある『青島村郷土史』の中の第3編第1章[雑事]の項に、「晴雨に関する旧来よりの俗説」がまとめられている。いわゆる天気・天候に関する俚諺を集めたもので、私が読む限り非常に価値があるものである。
   「日暮レニ立山明ラカニ見ユレバ明天晴天」
など、ほとんど天気変化・雨の予知に関するものだが、風に関するものも二つある。
   「南山冴ユレバ風トナル」
   「夏西南ノ山に急に岳雲出来レバ風或イハ夕立」
 これらは後で述べるように砺波平野で南よりの風が吹く時の天気変化を的確に捉えている。ほぼ100年前には、井波風などは現在と同じくらいの水準で認識されていたことが伺える。ただし、この記載は庄川の出口に位置する青島村の郷土史だから、隣村に相当する井波の風ではなく、庄川ダシの時のことを捉えていると見るべきであろう。

砺波平野の局地風研究

 富山平野や砺波平野には強風を鎮めるための信仰である不吹堂(ふかんどう)信仰があり、その分布は前世紀前半に調べられた。如何に人びとの生活と深くかかわっているかが明らかにされた。また、砺波の散村の成因においても強風と火災延焼の問題が考察された。 気候・気象の教科書・解説書に砺波の南よりの風は記述されていたが、詳しい研究は1970年代に新藤正夫(1970)が行った。強風は3~4月が最も多く、台風期の9月や11月にも多い。継続時間は春にはふつう24時間まれに40時間に及ぶ。局地気象学的な研究は小川剛史(2001)が行った。これらの結果を(表1)にまとめた。

(表1)井波風・砺波平野の風・庄川ダシの特徴(新藤*,小川**,吉野***の結果を吉野がまとめた)

現象の特徴井波風砺波平野の風庄川ダシ

主風向SEWSW-SWSE-SSE
卓越地域八乙女山の北麓沿いの長軸3㎞,短軸2㎞地域福光を中心とする砺波平野青島を中心とする狭い地域
強風の継続時間長い短い短い
気圧配置東高西低南高北低局地高気圧
 高気圧三陸沖で中心は35N,35N,150-160E20-30N岐阜県高山に中心
 低気圧日本海日本海または三陸沖付近にはなし
強風時の本州の太平洋側と日本海側の気圧差比較的小ほとんどなし(庄川の山風)

*新藤正夫(1970):気候。井波町史(上巻),井波町史編纂委員会編,10-26
**小川剛史(2001):局地風「井波風」の中気候学的研究。砺波散村地域研究所研究紀要18号,19-33
***吉野正敏(1987):新版小気候。地人書館,238‐239

 この表でわかることは、井波風は八乙女山(山頂ではなくその北東の鞍部)を吹き越して降りてくる南東の風で、砺波平野の風は小矢部川の谷を吹き降りてくる南西の風である点である。その差は気圧配置の違いによって生じる。井波風の範囲は2km x 3kmの楕円形の地域であまり広くない。
 庄川ダシは中部地方が移動性高気圧に覆われた時、特に岐阜県高山付近に中心を持つ局地高気圧が形成される。その晴れた穏やかな夜から明け方・午前早くに山風が庄川の谷に沿って吹き出し、庄川扇状地における扇の要め付近の小地域に強風をもたらす。山風の強いものである。明け方から早朝に最強となる。10-11月頃によく発生する。
 これらの地域は(図1)を参照していただければ、地形との関係をよく理解できるであろう。


(図1)砺波平野の散村地域(砺波市立砺波散村地域研究所,2010による)

散村風景

 砺波平野の散村は景観としても日本を代表するものである。(図1)に散村が見られる地域を示してある。(写真1)は1986(昭和61)年における砺波市鷹栖付近の空中写真である。画面中央と右の方の4分の3はまだまだ散村形態が維持されている。画面左の4分の1には宅地に転換された部分が見られる。この頃、水田から宅地に転換されることが多くなってきた結果である。水田1枚で8~12軒の住宅からなる住宅団地になった。


(写真1)1986(昭和61)年の砺波市鷹栖付近の散村(水田と農家の分布)と、
その1部に進出した住宅団地(画面の左約4分の1)(資料の出所は図1と同じ)

 水田の圃場整備は1962(昭和37)年に砺波町福野町の4ヵ所で始まり、1区画は縦100m、横30~40mの長方形で広さ30~40aの大型水田になった。もちろん散村風景は残された。水田に水が張られ、田植え直後は広い水面となり、屋敷森に囲まれた各農家は1軒1軒が水に浮かぶ大きな船のようにも見える。特に光の角度によっては1軒毎が水面に影を落とす。あるいは水面は鏡のようになり、青空と緑の屋敷森を映し出し、真と虚で空間を埋める。圧巻の風景と言うよりほかない。観光資源として最上である。

屋敷林

 屋敷林はカイニョとよばれる。1717(享保2)年、この地方を治めていた加賀藩は「七木の制(しちぼくのせい)」といってスギ、キリ、カシ、ケヤキ、マツ、ヒノキ、クリを特に保護するように命じた。農家の屋敷内の木々も大切に育てるような方針をとった。これが今日の見事な屋敷林の基礎である。近年では、スギを中心にしてクロマツ、アカマツ、カシ、モミ、ラカンマキ、カエデなどが混じる森のようになっている。  用材、薪などの供給目的は昨今無くなったが、住宅内外の適正な換気、清浄な空気の流入、防音効果、鳥類・小動物保護などにプラスの効果があり、より良い居住環境を提供している。バイオクリマから考えれば、非常によい条件である。一方、落ち葉・落ち枝処理、林床手入れなどの労働力を必要とするので、各農家にとっては負担となる。地域として解決する必要があろう。


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