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暮らしの中のバイオクリマ

No.29

2013.02.06

吉野正敏

南大東島の春

日本の気候の局地性

 2月、北海道の厳寒の地では、寒の戻りはどれほどか、西南日本の人びとには体験してみないとわからない。或いは、北陸・上越の豪雪の山地の生活は、露地で花が咲いている房総の人たちの想像を絶する。日本は面積が狭い国ではあるが、気候の局地性に富むことでは世界一と言ってもよいのではないだろうか。
 これは日本が温帯にあって、島国だからである。日本の風景を“箱庭的”と表現する人がいるが、目に見える風景だけでない。気候や天気などが狭い空間にさまざま、言い換えれば局地性に富むのが日本における特徴である。
 しかも2月・3月・4月頃は局地性が最もはっきり出るように私は思う。北日本は気温は0℃以下、季節は冬の真っ最中なのに対し、沖縄では春、本州でも中部地方や関東の海岸ではスイセンの真っ盛りである。南大東島は鹿児島の南方で、那覇の東方の交点にほぼ位置する。正確に言うと、北緯25°50’、東経131°14’である。台風銀座と呼ばれる所にある。冬や夏の気温は那覇とほぼ同じである。台風発生情報では最もよく耳にするので、有名である。しかし、南大東島のことはあまりよく知られていないので、『南大東村史(1990)』などを参考にしながら、紹介をしておきたい。筆者はサトウキビ生産と気候との関係の研究で、何回か訪れたことがあるが、興味ある島である。

南大東島の気象観測の歴史

 1915年、今から約100年前、2人の中央気象台(現在の気象庁)の技術者が苦労の末、ラサ島(沖大東島)に上陸、気象観測基地を設立した。これはラサ島燐鉱株式会社の依頼によるものであった。この観測所の記録はその後30年間蓄積し日本南方の気候を知る基礎データとなった。南大東島の気象観測は沖大東島の観測開始から2年遅れて、東洋製糖株式会社の要請により、農業気象観測の目的で1917年8月11日に始まった。翌年3月1日から南大東無線局を経て、気象台と気象電報の交換を始めた。
 1942年2月1日から気象通報業務を開始した。第2次大戦は始まっていた。南方の気象情報は作戦計画に直接かかわるので、農業気象ばかりでなく、短期・長期の気象予報にも欠かせない情報を提供することになった。
 1945年日本は敗戦し、その後、幾多の困難な時代を経た。1950年11月1日から琉球気象局下で南大東島測候所となり、名称や官制が変化し、1971年5月15日、沖縄の本土復帰とともに南大東島地方気象台と改称された。ある意味では、日本の気象観測事業の縮図がこの島の観測の歴史である。

台風被害

 台風による被害は昔から知られていた。1920年、台風来襲により圧死者5名、建物500戸以上が倒壊した。1930年には推定風速57m/sec.の猛烈な台風が来襲し、南北大東島を合わせて、約1,000戸の家屋が倒壊した。台風による高波はすさまじい。島を取り巻く絶壁に押し寄せ、砕け、その力は“島を動かす”と表現される。
 今日でも、台風発生時のこの島付近の情報は、われわれの台風シーズンの生活には欠かせない。なお、南大東島の台風被害については、筆者の『風と人びと』(東京大学出版会、1999)にも書いたので、読んでいただければ幸いである。

南大東島の春

 2月、西南日本の太平洋側を台湾坊主と呼ばれる温帯低気圧が東進し、通過した後、北寄りの風が強くなり大しけが数日続き、寒の戻りが来る。この春の風を『2月風廻り、ニングァチカジアーイ』と沖縄の漁民は呼ぶ。この嵐がおさまるとツバメがサトウキビの穂先をかすめて、低く飛ぶ。ツバメの平均初見日は3月17日で石垣島より5日遅れる。近年の温暖化で初見日は早くなっているとも言われている。
 村木に指定されているビロー樹(方言名クバ)や月桃(サンニン)が花を付け、ヒラミレモン(シークァーサー)が開花する。県の花、デイゴの平均開花日は3月27日で石垣島より遅い。テッポウユリの平均開花日は4月22日で石垣島より19日遅れる。こうして晩春を迎える。本州より色の濃い花が多いから、花を見るだけでも亜熱帯の植物相を感じ、魅力にひかれる。
 4月は黄砂の季節でもある。中国の沙漠からはるばる飛んでくる。どんよりした天気で、どこか黄色っぽい空になる。人間活動起源の大気汚染とはどこか違った感じである。
 このような大気中の浮遊物は雨で流れ落される。穀雨とよばれ、暦では4月20日である。この時期の雨は大気の不安定度が大きいため強い。春雷を伴うこともあり、早くも、梅雨の近いことを知らせる。

開拓の歴史

 開拓当初の明治3年(1870年)頃の植生は次のようであった。森林に覆われ、上層はタブノキ、アコウ、ガジュマル、ビロウ、ヤブニッケイ、ハマイヌビワ、ハゼ、リュウキュウガキが多かった。下層はフウトウカズラ、トウズルモドキ、サクララン、ユズノハカズラが多かった。開拓が進むとこのような森林は急速に伐採され、耕地に変わった。
 南大東島の開拓をした玉置商会は八丈島からモクマオ、ヤラボ、クスノキを導入したが、乱伐は大正5年(1915年)その極に達した。玉置商会から経営を引き継いだ東洋製糖は島民の生活を向上させ、耕地の生産性を高めるため、防風林を育成した。1920~1925年にかけて、リュウキュウマツ、ソウシジュ、モクマオ、アカギ、フクギ、タケ、ヤラボ、デイゴを植樹した。現在みられる見事な防風林はこの時代のものが多い。
 大東糖業が設立された1952年サトウキビ栽培面積は拡大しそれ以前はオオムギ・コムギ・キャッサバ・甘藷などが主であったが、これらと同じ位の栽培面積となった。その後、サトウキビの栽培面積が増え続けた。収穫量は干ばつや台風による被害で落ち込んだ年があるのは言うまでもない。
 最近では磯釣りを楽しむ人達に人気がある。夏場には島外から多数の釣り人が訪れる。 オキアミを使っての竿釣りでイスズミ、タカサゴ、カワハギ、アカマツカサなどが代表的である。
 尚、島の周辺海域はマグロ、サワラの好漁場である。島の名物であるサワラを使ったすしは那覇市内の店でも観光客に人気である。


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