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お天気豆知識

台風あれこれの記事一覧

No.99

2009.4 Categories台風あれこれ

上陸台風なしの2008年

 昨年(2008年)は、日本列島(北海道、本州、四国、九州)に上陸した台風はありませんでした。日本列島に台風が上陸しないということは、珍しいといえば珍しいのですが、今までに無かったわけではありません。
 前の上陸台風なしの年は、前世紀最後の年の2000年です。現在は発行されていませんが、“気象”という雑誌の2001年2月号の記事の「2000年 日本の天候・台風」を見ると、見出しに“14年ぶりの上陸台風なし”と書いてありました。サブの見出しには、“台風の発生が少なかったが日本への接近台風は多い”となっています。
 気象庁で台風の統計を取るようになったのは1951年(昭和26年)からです。それによると、台風が上陸しなかった年は、1984年、1986年、2000年と昨年(2008年)の4回です。58年間で4回ですから、珍しいといえば珍しいですね。(表1)は台風が上陸しなかった年の発生数です。台風が上陸しなかった年だけ見ると、今世紀のケースは発生数が前世紀のケースよりも少なくなっています。

(表1)台風の発生数(台風が上陸しなかった年)
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年間
2008年   14124423122
2000年    2 56522123
1986年 1 12235354329
1984年     255473127
平年0.50.10.40.811.74.15.55.13.92.51.326.7
(気象庁提供のデータによる)

 

 台風の上陸が無かった前回(2000年)と今回(2008年)の台風経路図(図1と図2)を見比べてください。上陸なしですから、日本列島の上に台風が通った跡(線)がありません。しかし、前回と今回で違いがあるのがわかりますか。前回は日本列島の近くの東側と西側を北上しています。今回も東側と西側を北上していますが、その数は少なく、日本列島から離れたところを北上しています。また、ほとんどの台風が日本列島の南を通っています。


(図1)2000年の台風経路図

(図2)2008年の台風経路図

(図は気象庁提供のデータで作成しました)

 2000年と2008年はどのような天候だったか夏を中心に比べてみましょう。
 2000年の夏は1994年以来の暑い夏でした。1994年というと、夏季は雨が少なく、四国の早明浦ダムの水がなくなってダムの底が見えました。また、琵琶湖の水位が1m以下になって、湖水に優雅な姿を映していた浮身堂の下まで歩いていけました。
 話を2000年に戻しますが、この年の梅雨明けはおおむね平年並みでした。梅雨明け後の盛夏期はほぼ太平洋高気圧におおわれ、晴れて暑い日が多く、7月下旬以降「高温に関する気象情報」が各地で発表されています。でも、太平洋高気圧の勢力が安定しないで、上空に寒気が流れ込んだり、南から大雨のもとになる暖かく湿った気流が入りやすくなって、各地で雷雨や局地的な大雨が多発しました。9月後半から太平洋高気圧の勢力が再び強まり、いつもの年より暑い秋になりました。
 昨年(2008年)の夏は皆さんも覚えていると思いますが、やたらと雷雨や局地的な大雨の多い年でした。2000年と同じですね。梅雨明けは西日本や東日本では平年よりも早かったのですが、北日本で遅くなりました。西日本では梅雨明け後、暑い日が続きました。しかし、太平洋高気圧が安定せず、7月下旬から9月初めにかけて上空に寒気が入りやすくなり、南から暖かく湿った気流も入りやすくなりました。その後、高気圧に覆われる日が多かったのですが、9月下旬にはシベリヤから強い寒気が流れ込み、北日本を中心に西高東低の等圧線が縦縞模様になる冬型のような気圧配置になりました。
 いくら大きな力を持った台風でも、上空の流れに逆らうことはできませんし、上空まで高気圧になっている地域に突っ込むことはできません。また、冷たい空気が広く覆っている地域に台風が入ると、たちまち衰えてその姿を変えてしまいます。台風が上陸なしの年でも、日本への台風の接近の仕方や天候の違いがあるなんて面白いと思いませんか。

No.68

2006.9 Categories台風あれこれ

終戦と台風

 “楽しみにしていた遠足や運動会が雨で中止になった”とか、“旅行に行ったけれど台風で交通機関が麻痺して大変だった”という経験は、少なからず持っていることでしょう。お天気は人間が決めたスケジュールに合わせて変化してくれず、自然の都合しだいなのでなかなかうまくいきませんね。


(図1)終戦後最初に上陸した台風の経路図

 昭和20年8月15日、太平洋戦争は終わりましたが、戦災で日本は各地で大変なことになっていました。お天気の方で少しは手加減してくれるかと思うと、そのようなことはありませんでした。終戦後の最初の台風(図1)は、豆台風でしたが終戦の日の約1週間後、ラジオで天気予報が再開された翌日の8月23日未明に房総半島に上陸して関東地方を北西方向に通過しています。気象観測は空襲で破壊されていない気象官署で行われていました。しかし、海上の観測は皆無です。現在でも海上の気象観測は航行中の船の観測が頼りですが、当時は航行する船舶はほとんどありませんでした。さらに通信回線も完全に復旧しておらず、離島からの情報は入ってきませんでした。このため、台風が接近していることがわからず、まさに不意打ちだったようです。


(図2)枕崎台風の経路図

終戦の月の翌月の9月には大きな台風が西日本を通過しています。柳田邦夫著「空白の天気図」の元になっている枕崎台風です。枕崎台風は9月11日頃にマリアナ付近で発生し、17日の朝、奄美大島の名瀬付近を通過し、17日14時に九州南部に上陸しました。その後、豊後水道、周防灘を経て瀬戸内海に入って広島県を通り、18日2時頃に豊岡付近から日本海に出ました。東北地方北部を通って18日の午後には太平洋側に抜けています(図2)。

 台風が上陸した九州南部にある枕崎測候所では最低気圧687.5㎜(916.6hPa)で、当時としては第1室戸台風のときに室戸で観測された684㎜(911.9hPa)に次ぐ記録でした。しかも690㎜(約920hPa)以下の気圧が20分以上も続き、最大風速は40m/sで瞬間最大風速は62.7m/sでした。枕崎台風はいかに強烈な台風だったかがわかります。しかし、通信回線が復旧していなかったため、これらの観測データは中央気象台や他の地域に伝わっていません。観測データを送れなかったのは枕崎だけではなく、その当時の天気図(図3)からわかるように、台風の進行につれて観測記録が送れなかった地域が広がっています。


(図3)枕崎台風通過時の天気図 (気象庁提供)

(表1)枕崎台風による西日本の死傷者・行方
不明者 (気象要覧による)

府県名死者傷者行方不明
鹿児島10426825397
宮崎821190201
佐賀583043131
大分32681101
福岡79618148
長崎16 218
熊本1  1
愛媛15932823 
徳島4418365
香川1319032
高知119626
山口424283274981
岡山791648143
島根797615170
鳥取64414
広島122910547833066
兵庫196346128
京都73111
大阪3  3
和歌山55 10
全国2473245212836208

 今では様々な高さの天気図が東京の気象庁で作られ、それらや防災上の注意点は各気象台に送られています。当時も天気図は中央気象台(現気象庁)で作成され、各気象台には天気図の概要や防災上の情報も送られていました。広島の気象台の職員は中央気象台からの情報や広島の観測データで台風の接近はわかっており、防災に対する情報も出されています。しかし、広島は通信網や報道機関の機能も完全に復旧してなく、この台風に対する防災情報は一般市民に伝わっていませんでした。
 広島県では土石流や河川の氾濫で広島市や呉市周辺で被害がひどく、大野村(現在廿日市市大野町)では丸石川で大規模な土石流が発生して原爆にあった市民を治療していた大野陸軍病院を直撃し、180名近くの人が亡くなりました。広島市内でも市内を流れる太田川が氾濫し、原爆の被災地を水浸しにしました。月ごとの気象や地震のことが書かれた気象要覧(中央気象台発行)には、「近畿以西の各地で甚大な被害があった」とあります。(表1)は枕崎台風による西日本の府県ごとの死傷者・行方不明者数です。広島県では枕崎台風による死傷者・行方不明者数が3,066人と他府県に比べて遥かに多く、全国合計の被害者数の半分を占めています。
 現在では、気象衛星やレーダーにより、時々刻々台風の動きをつかむことができ、通信網も整備されました。防災情報はテレビやラジオでも伝えられ、1つの台風で死者・行方不明者が数百人になることはありません。携帯電話やインターネットでもそれらの情報や台風の動きを見ることができます。改めて防災情報の重要性やありがたさ、平和のありがたさを感じます。

No.56

2005.9 Categories台風あれこれ

台風は温泉が好き?

 昨年(2004年)は台風が10個も上陸し、台風の統計を取り始めた昭和26年以降、最大の上陸数でした。また、南西諸島や小笠原など、島嶼(とうしょ)部も含んだ日本への接近数は19個(平年10.8個)で昭和35年(1960年)、昭和41年(1966年)の記録と並び、歴代最多でした。上陸した10個の台風はそれぞれに違った顔をしており、上陸地点も違っていました。


(図)1990年の台風 第19号、第20号、第21号、
第28号の経路図
○は午前9時の台風中心位置、点線部分は台風が熱
帯低気圧又は温帯低気圧になっていることを示す。

 台風の歴史の中には「そんなまさか」というような珍しいこともあります。そのひとつの例が1990年(平成2年)にありました。台風経路図を見てください。19号、20号、21号と紀伊半島南西部に上陸しています。上陸地点は、19号と20号が和歌山県白浜町、21号が和歌山県田辺市、白浜町のすぐ北です。白浜町は白浜温泉で有名ですが、まさか台風は温泉が好きだったわけではないでしょうが。

 この年の夏は中国大陸から太平洋に及ぶ長大な高気圧(亜熱帯高気圧)の帯が日本の上空に居座り、各地で猛暑が続きました。雨が少なかった関西では琵琶湖の水位がどんどん下がり、9月に入ると渇水が懸念されていました。しかし、9月中旬から停滞していた秋雨前線を台風19号が刺激して降らせた雨で、渇水の心配はなくなりました。一方降りすぎたところもあり、兵庫県北部では大雨で昨年(2004年)氾濫した円山川が氾濫しています。

 上陸した日は、19号が9月19日20時過ぎ、20号が9月30日9時30分頃、21号が10月8日10時30分頃でした。8日ないし10日ごとに台風が上陸しています。19号は上陸したとき大型で強い勢力でしたが、20号は小型で並の勢力で、21号は中型で並の勢力でした。19号はもちろんですが、20号も21号も近畿地方に多量の雨を降らせ、河川は増水し、たくさんの水がダムに流れ込みました。ダムには発電所があり、電力会社の社員が入ってくる水量に合わせて発電に使う放流量を調節するところもあります。しかし、発電に使う水よりたくさんの水が入ってくると、ダム本体のゲートを空けて放流を行います。このような時は、ダムを管理している役所の職員が直接ゲートを操作して放流量を調節するようになり、職員が交代で泊り込むようになります。このように、次から次へと台風が来ると、ダムに流入する水の量がなかなか減らず、職員は休みが取れません。当時の記録を見ると、若い独身の職員が「洗濯ができず着る肌着なくなった。」と、悲鳴を上げていました。

 1990年の台風の記録にはおまけがあります。台風28号が11月30日に紀伊半島南部に上陸しました。この記録が、台風の上陸として最も遅いものとなっています。

 また1990年の8月から9月にかけて、台風の複雑な動きのメカニズムを解き明かすために、日本の南海上を中心とし台風特別実験のための特別観測が行われました。この観測には、日本を始め、中国、韓国、フィリピンなどアジアの10ヶ国が参加し、アメリカ、ソビエト(現ロシア)が独自に観測船等を派遣していました。高層観測は6時間毎(通常12時間間隔)に行われ、台風をとりまく形で展開した観測船により海上気象や高層気象観測、航空機による観測など、普段では得られない豊富で精密な観測データが得られました。観測対象となった台風は7つあり、19号台風もその一つで最大規模のものでした。台風19号の解析結果は翌1991年にNHKで1時間半の番組として放映されています。その番組では台風の構造や発達のメカニズムがグラフィックを使って判りやすく表現されており、とても興味深い番組でした。これらの解析結果は、その後の台風予報に活用されていることは言うまでもありません。

No.30

2003.8 Categories台風あれこれ

台風は給水車

 ほぼ10年ほど前になりますが、1994年(平成6年)の夏のことを覚えていますか。今年とは逆で梅雨期間は短く、おまけに雨がほとんど降りませんでした。さらに、梅雨が明けてからは猛暑続きで雨があまり降らず、降ったとしても局地的な雨でした。
各地のダムは貯水量がどんどん減り、特にショッキングだったのは、四国の早明浦ダムが空っぽになり、ダム湖の湖底が現れたことです。連日新聞やテレビで報道されていたので、記憶に残っていることでしょう。前の年の1993年夏は長雨続きとなり米があまり取れず、1994年は米騒動(?)で始まりましたからあまりの違いに驚かされます。

(表1) 琵琶湖の月雨量と平年比
5月
6月
7月
8月
9月
10月
1994年
129.5
105.0
 41.0
 37.0
320.5
 29.5
平年値
151.5
204.5
200.5
121.8
194.7
111.7
平年比(%)
 85.4
 51.3
 20.4
 30.3
164.6
 26.4

日本で最も広く、関西の重要な水瓶である琵琶湖でもこの年にはどんどん水位が下がりました。(表1)は琵琶湖畔にある彦根地方気象台の毎月の雨量データです。6~8月にかけて平年よりも雨量が少ないことがわかります。 このため、8月末には琵琶湖の水位は基準とする水位よりも1mも低くなりました。9月は320.5mmの雨量となっていますが、そのほとんどは9月中旬の大雨と下旬に近畿地方東部を北に進んだ台風26号による大雨で、それまでは暑い晴天が続いたため、9月16日には基準とする水位より約1.2m低くなっています。ところで、琵琶湖の基準水位となる高さは大阪城の天守閣の高さです。
(写真1)は琵琶湖南部の西岸、堅田にある「浮御堂」の1994年9月10日の写真です。通常は(写真2)のように湖水の上にあるのですが、この年は(写真1)のようになってしまい、琵琶湖の底を歩くことができました。写真で、「浮御堂」のすぐ右の台座の上に白いポールが立っています。これは琵琶湖の水位を見るための物ですが、用をなさなくなりました。琵琶湖では漁業も行われており、水位が低くなったために漁港から船を出せなくなったところもあると聞いています。


腹(写真1) 浮御堂(1994年9月10日撮影)
湖底が見えている状態

(写真2) 浮御堂(2003年7月5日撮影)
通常の状態

もちろん、8月に入ってから琵琶湖を含め、淀川本流や淀川に流入する桂川や木津川からの取水量は制限されました。幸いなことに、一般家庭の水道には大きな影響はありませんでした。琵琶湖の水位が基準とする水位より1.5m以上低くなると、関係する水道では給水制限になるといわれています。また、あまり琵琶湖の水位が低くなると、面積が広いだけに回復させるのは大変です。琵琶湖の水を利用しているのは人間だけでなく、宇治川や淀川に住んでいるさまざまな生物にとっても必要なのでその量も考えなくてはならず、淀川の流れを管理する部門では大変苦労をしたようです。
(図1)からわかるように、琵琶湖の水位は9月中旬の大雨である程度まであがり、下旬には台風26号の大雨でこの時期の琵琶湖の制限水位近くまで回復しました。その後、淀川水系では取水制限も解除されたと聞いています。一方、早明浦ダムを利用していた香川用水は、台風29号の雨により、11月14日に給水制限が解除されています。雨が少なく渇水になったときには、とにかく雨が降るのを待つしかありません。台風は雨だけでなく風や波、高潮などでさまざまな災害をもたらします。しかし水不足のときにはこのように台風は大きな給水車になるのです。


(図1) 琵琶湖の水位変化(1994年7~10月)

No.5

2002.9 Categories台風あれこれ

台風の特異日


(図1)台風と秋雨前線

  台風シーズンは9月と世間一般でいわれていますが、台風の発生数、日本への上陸数は8月が最も多くなっています。 9月に日本へ来襲する台風は、8月に比べると勢力が強く、また日本列島には秋雨前線があり、台風の東側と太平洋高気圧の間では南から暖かく湿った空気が前線の活動を活発化させて大雨を降らせる(図1参照)など、台風による被害が大きいことが多いからでしょう。

(表1)日本に大きな被害をもたらした台風
台風名日本に影響した年月と台風番号
洞爺丸台風1954年(昭和29年)9月 第15号 
狩野川台風1958年(昭和33年)9月 第22号 
宮古島台風1959年(昭和34年)9月 第14号 
伊勢湾台風1959年(昭和34年)9月 第15号 
第2室戸台風1961年(昭和36年)9月 第18号 
第2宮古島台風1966年(昭和41年)9月 第18号 
第3宮古島台風1968年(昭和43年)9月 第16号 
沖永良部台風1977年(昭和52年)9月 第 9号 
気象庁編「気象ガイドブック」(2002)より

気象庁は特に大きな被害をもたらした気象現象や地震に対しては特別な名前(バックナンバー「台風の名前」参照)をつけています。
その中で、名前をつけられた台風を(表1)に示しましたが、すべて9月です。このことからも、9月が台風シーズンといわれているのでしょう。 

 

気象、お天気には特異日というものがあります。その理由は解明されていませんが、なぜかその日には特定の気象現象が起きやすくなっています。例えば、11月3日は晴天の特異日として有名です。9月は立春の日から数えて210日目の二百十日、220日目の二百二十日が台風の厄日といわれていますが、大型台風が来襲しやすい特異日は9月17日頃と26日頃です。
9月17日頃は1947年(昭和22年)のカスリーン台風、1948年(昭和23年)のアイオン台風、1961年(昭和36年)の第2室戸台風、26日頃は1954年(昭和29年)の洞爺丸台風、1958年(昭和33年)の狩野川台風、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風などです。いずれも災害史に残る名だたる台風ばかりです。
平成に入ってからは、特異日のひとつである9月17日には、上陸こそしませんでしたが戦後最大級の台風12号が1995年(平成7年)9月17日に八丈島付近を通過しています。もうひとつの特異日である9月27日には、1991年(平成3年)9月27日に台風19号が佐世保市に上陸し、28日にかけて足早に日本海を北東に進み(洞爺丸台風と似たコース)ました。この台風により、厳島神社が被害(創建以来初めてといわれている)を受け、青森県は収穫間近のリンゴが多量に落下するという被害が出ています。
1991年(平成3年)の台風19号が来たときは、筆者は石川県志賀町(能登半島中部西海岸)で海岸からやや入った所にある鉄筋コンクリート5階建てのアパートの4階に住んでいました。台風の規模からして、ただならぬことになると思いました。27日午後に聞いたNHKラジオの台風19号に対する気象情報では「最大級に警戒をして下さい。」と言っていたことが印象的でした。
確かに台風が通過した27日の夜はものすごい風で、サッシの窓が風圧で曲がっていたように感じ、窓が割れるのではないかと怖くなりました。同じアパートの別の部屋ではガラスの割れる音も聞こえました。ベランダに置いてあった物が飛んだのでしょう。幸い我が家ではこの台風に備え、ベランダにあったすべての物を室内に入れたため窓が割れることはありませんでした。また、外を見ると、近くにある交差点を通過する車が、風下方向に流されていました。


(写真1)台風19号の風の影響 →<拡大画像>

翌朝、すっかり風は収まりましたが、交差点の信号機はライトの部分が曲がっていました(写真1)。サッシとサッシの間からは砂が室内に入り、車の中にも砂が入っていました。道は飛んできた瓦が砕けて散らばっていましたし、あるお寺では釣り鐘堂が潰れたとも聞きました。釣り鐘堂は壁がない構造で屋根の断面を考えると飛行機の翼の様なので、風で浮き上がり一時的に風が弱まったときに地面に落ちたのでしょう。
強い風の恐ろしさをまざまざと見せつけられた思いです。残念だったことは、砺波平野で火事が起こり、強い風によりかなり広い範囲まで火の粉が降り注ぎ、人家が散在している農村地帯で16棟が焼けてしまったことです。

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