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お天気豆知識

お天気雑談の記事一覧

No.113

2010.6 Categoriesその他

絵画にみる気候変化(連載を終わるにあたって)

 2002年からお天気豆知識を書き始めて9年目になり、100号を超えてしまいました。このように長く書き続けることができるとは思ってもみませんでした。さすがに話の種がなくなってしまい、今回で「お天気豆知識」の連載を終了いたします。長い間お付き合いいただきましてありがとうございました。このような機会を与えてくださった社にも感謝しています。「お天気豆知識」は気象の研究者が書いた教科書、解説書に比べて内容不足です。これは私の勉強不足で書くことができませんでした。
 これらを書くために、海外の物も含め、いろいろな本や文献を読むことができました。海外のものといっても、私の言語能力の都合上、英語圏の資料です。おかげさまで、西洋人と日本人の文化の違い、視点の違いみたいなものを感ずることができました。例えば、“飛行雲”についていろいろな考察がなされていることには驚かされました。
 これから書くことも、「目から鱗」の世界です。地球温暖化に関係してこれからの気候がどうなるかに関心が集まっていますが、地球の歴史を探るため、いつの時代が寒かったあるいは暖かかったなどの昔の気候、古気候についても感心がもたれています。古気候の調査には木の年輪、厚く堆積した氷や海底の堆積物のコアなどが使われます。しかし、補助的表現の一つとして、絵画、風景画が使われていたのには驚きました。それは、イギリスのテームズ川がロンドンブリッジあたりで凍ったようすや、その凍った川の上で行なわれている“市”の様子が描かれた風景画です。アブラハム・ホンティウス(Abraham Hondius)が1676年に描いたもの、トーマス・ウイク(Thomas Wyke)が1683年から1684年にかけて描いたもの、リューク・セレネル(Luke Clenell)が1814年に描いたものが紹介されています。つまり、17世紀後半や19世紀前半は今よりも寒かったことになります。
 日本では昔の気候の調査に、諏訪湖が結氷して湖を貫く氷の裂け目が盛り上がった御身渡りの記録や、古い日記に書かれたお花見の時期の違いが使われています。江戸時代の天保6年(1835年)と天保12年から13年(1841~42年)に出版された「北越雪譜」も当時の気候を読み解く資料の一つといえるでしょう。この本は越後の国塩沢(現在の新潟県魚沼市)を中心とした冬の生活が描かれていますが、現在と比べると雪に埋もれた期間が長いようです。冬には新潟県松之山付近から長岡あたりで信濃川に入る渋海川の緩やかな流れの部分が凍るとありました。“渡口(わたしば)などは斧にて氷を砕きて渡せども、終には氷厚くなりて力およびがたく、船は陸に在りて人々氷の上を渉(わた)る。”という記述です。きちんと調べていませんが、現在は渋海川は凍っていないと思います。また、天保5年(1833年)から天保10年(1839年)は天保の大飢饉といわれているので、日本が今よりも寒い時期の雪国の様子といえるでしょう。
 最後になりますが、今までに使った主な参考図書や文献を紹介いたします。また何かおもしろい話題が見つかりましたら紹介させていただきます。


<参考文献(アルファべット順)>

・阿部直正(1939):富士山の雲形分類,気象集誌,Vol.17,163-181
 ・赤津邦夫(1988):クニッピング「日本滞在記より」,気象No376,4-8
 ・Alan Sealls(2004):The Hole Story, Weatherwise(Sep/Oct 2004),68-69
 ・荒川正一(1999):ランドサットが捉えた富士山の吊るし雲,東京家政大学研究紀要第39集(2),121-126
 ・荒川正一(2000):局地風のいろいろ,成山堂書店
 ・C.David Whiteman(2000):Mountain Metorology,Oxford University Press
 ・C.Donald Ahrens(2003):Meteorology Today 7nd Edition,Thomson
 ・Carmen J.Nappo(2002):Atmospheric Gravity Waves,Academic Press
 ・D.E.Pedgley(2003):Luke Howard and his cloud,Weather Vol.58,51-55
 ・David Whipple(2006):Contrail contortions,Weather Vol.61,207-208
 ・David K.Lynch、Kenneth Sasen、David O'C.Starr、Craeme Stephens(2002):Cirrus,Oxford University Press
 ・Dennis Wheeler,Gaston Dmaree(2005):The weather of the Wateloo campaign 16 to 18 June 1815:did it change the course of history?,Weather Vol.60,159-164
 ・Duncan C.Blanchard(1998):The Snowflake Man(A Biography of Wilson A.Bentley),The McDonald & Woodward Publishing Company
 ・Frances J.Pouncy(2003):A history of cloud codes and symbols,Weather Vol.58,69-80
 ・古沢典夫他(1984):聞き書 岩手の食事,農山漁村文化協会
 ・淵田美津雄、中田整一(2007):真珠湾攻撃総隊長の回想(淵田美津雄自叙伝),講談社
 ・藤田哲也(1973):たつまき(渦の驚異)上,共立出版
 ・岸保勘三郎、田中正之、時岡達志(1982):大気の大循環(大気科学講座4),東京大学出版会
 ・Gavine Pretor-Pinney(2006):The The Cloudspotter’s Guide,A Perigee Book
 ・Graeme L.Stepher(2003) :The Useful Pursuit of Shadows,American Scientist Vol.91,442-449
 ・花岡利昌(1991):伝統民家の生態学,海青社
 ・半田 孝、正木 明(1989):中層雲にあいた円形の穴,天気Vol.36,35-38
 ・平塚和夫(1992):気圧単位の変遷について,気象No427,4-9
 ・Hobbs,P.V(1985):Holes in cloud,Weatherwise,38,254-258
 ・Howard B.Bluestein(1999):Tornado Alley,Oxford University Press
 ・J.F.P.Galvin(2003):Observing the sky-how do we recognize clouds?,Weather Vol.58,55-62
 ・James A.Screen & A.Robert MacKenzie(2004):Aircraft condensation trails and cirrus,Weather Vol.59,116-121
 ・John M.Wallace & Peter V.Hobbs(2006):Atmospheric Science 2nd Edition,Academic Press
 ・篝 益男(1965):信州の天気のことわざ,古今書院
 ・Kennenth G.Libbrecht(2007):The Formation of Snow Crystals,American Scientist, Vol.95,52-59
 ・Kerrty A.Emanuel(1994):Atmospheric Convection,Oxford University Press
 ・木田重雄(1994):いまさら流体力学?,丸善書店
 ・気象庁(1975):気象庁百年史
 ・気象庁広報室(1987):クニッピングの曾孫(気象長官を表敬訪問),気象No366,30
 ・気象衛星センター(1993):「ひまわり」で見る四季の気象,大蔵省印刷局
 ・気象衛星センター(2000):気象衛星画像の利用と解析,(財)気象業務支援センター
 ・Klaus-Peter Hoinka、Manuel de Castro、Reinhold Steinacker(2008):Artist depiction of mountain wave clouds(fohn clouds above lnnsbruck),Weather Vol63,94-97
 ・小林禎作(1968):雪華図説考,築地書館
 ・近藤純正(1987):身近な気象の科学(熱エネルギーの流れ),東京大学出版会
 ・L.T.Matveev(1984):Cloud Dynamics,D.Reidel Publishing Company
 ・M.Riikonen、L.Cowley、M.Schroeder、M.Pekkola、T.Ohman、C.Hinz(2007):Lowitz arcs,Weather Vol.62,252-256
 ・増田善信(1989):異常暈(ハロー)も空からの手紙,Vol.36,39、54
 ・Matveev,L.T.(1984):Cloud Dynamics,D.Reidel Publising Company
 ・宮澤清治(1994):ことばの始まり『集中豪雨』,気象No447,43
 ・宮澤清治(2004):天気図と気象の本,国際地学協会
 ・水野 量、福田矩彦(1993):過冷却雲へのシーディング実験で見られた光学現象,天気Vol.40,カラーページ
 ・水野 量(1994):尾流雲と乳房雲,天気Vol.41,カラーページ
 ・水野 量(1995):「尾流雲」の由来を知る 吉武藻素二元気象庁長官からの手紙,天気Vol.41,16
 ・水野 量(2000):雲と雨の気象学(応用気象シリーズ3),朝倉書店
 ・村上多喜雄(2003):モンスーン概論,気象研究ノート204,1-26
 ・村松照男(2005):天気の100の不思議、東京書店
 ・中村 繁(1988):明日の天気がわかる本,新星出版
 ・中谷宇吉郎(1937):霜柱の研究について,岩波書店(中谷宇吉郎全集 第2巻),161-168
 ・新野 宏(1987):流れの安定性について,天気 Vol.34,671-684
 ・二宮洸三、秋山孝子(1979):極東における梅雨前線帯,気象研究ノート138,1-29
 ・新田次郎、山本三郎(1969):雲(その生態と天気予報),山と渓谷社
 ・饒村 曜(1986):台風物語,(財)日本気象協会
 ・饒村 曜(1993):続・台風物語,(財)日本気象協会
 ・小倉義光(1994):お天気の科学(気象災害から身を守るために),森北出版
 ・小倉義光(1997):メソ気象の基礎理論,東京大学出版会
 ・小倉義光(2002):一般気象学〔第2版〕,東京大学出版会
 ・岡林一夫、中島 肇(1987):京都お天気歳時記,かもがわ出版
 ・大井正一、山本三郎、曲田光夫(1974):富士山の雲と大気の成層状態、気象研究ノートVol.118,39-35
 ・松井 健、小川 肇(1989):日本の風土,平凡社
 ・大西晴夫(1949):台風の科学,日本放送出版協会
 ・大谷東平、斎藤将一(1966):天気予報と天気図,法政大学出版会
 ・Peter V.Hobbs(1985):Hole in Clouds,Weatherwisw(Oct 1985),254-258
 ・Phil Jones( 2008):Historical climatology-a state of the art review,Weather Vol63,181-185
 ・R.S.Scorer(1949):Theory of wave in the lee of mountain,Quart.J.R.Met.Soc., Vol.75, 41-56
 ・R.S.Scorer(1978):Environmental Aerodynamics,Halsted Press
 ・Richard Scorer(1972):Clouds of The World,Lothian Publising Co Ltd.
 ・Robert A.Houze, Jr(1993):Cloud Dynamics,Academic Press
 ・Robert Greenler(1980):Rainbows, Haloes, and Glories,Cambridge University Press
 ・斎藤直輔(1982):天気図の歴史,東京堂出版
 ・Sean Potter(2007):December 7,1941:The Attack on Pearl Harbor,Weatherwise(Nov/Dec 2007),18-19
 ・柴田清孝(2001):光の気象学(応用気象シリーズ1),朝倉書店
 ・Simon B.Vosper & Douglas J.Parker(2002):Some perspectives on wave clouds,Weather Vol.57,3-8
 ・志崎大策(2002):富士山測候所物語,成山堂書店
 ・Stanly David Gedzelman(2003):A Cloud, by any other name…,Weatherwise 2003(Nov/Dc),24-28
 ・Storm Dunlop(2004):Weather,HaperCollinsPublishers
 ・住 明正、村上多喜雄(1984):モンスーンをめぐる諸問題(モンスーンの変動に及ぼすチベット高原の影響),気象研究ノート149
 ・Susan Hegedus(2007):Dreaming of a White Christmas,Weathrewise 2007(Nov/Dec),52-53
 ・鈴木牧之,岡田武松校訂(2008):北越雪譜,岩波書店
 ・Sverre Petterssen(1969) :Introduction to Meteorology 3nd Edition,McGRAW-HILI
 ・高橋喜平(1980):雪と氷の造形,朝日新聞社
 ・高橋喜平(1992):雪の文様,北海道大学図書刊行会
 ・高橋忠司(1999):過剰虹,天気 Vol.46,3-4
 ・ティアナ・ティース(2002):マンボウ,ナショナル・ジオグラフィク2002-11,132-137
 ・植野隆壽(1950):富士山雲の研究(其2),気象研究時報 Vol.2,1-9
 ・W. A. Bentley(1962):Snow Crystals,Dover
 ・W.J.Humphreys(1964):Physics of The Air,Dover
 ・和田光明、中村則之(2000):成熟期の積乱雲,天気,Vol.47,3-4
 ・和田光明、伍井 稔(2003):多層のレンズ状雲,天気,Vol.50,3-4
 ・和田光明、小池克征(2005):巻積雲に出来た穴,天気,Vol.52,3-4
 ・William R.Cotton、Richard A.Anthers(1989):Storm and Cloud Dynamics,Academic Press
 ・山本三郎(1967):登山者のための気象学,山と渓谷社
 ・吉崎正憲、加藤輝之(2007):豪雨と豪雪の気象学(応用気象シリーズ4),朝倉書店
 ・湯山 生(1972):富士山にかかる笠雲と吊るし雲の統計調査,研究時報 Vol.24,414―420
 ・湯山 生(1974):富士山の雲,気象研究ノート Vol.118,23―38
 ・Zbigniew Sorbjan(1996):Hands-On Meteorology,American Meteorological Society

No.110

2010.3 Categories

ホワイト・クリスマスそして

 “ホワイト・クリスマス”というと、私は子どもの頃レコード(SP版)で聞いた、“I’m dreaming of a white Christmas ・・・・“と歌いだされる、ビング・クロスビー(Bing Crosby)のソフトだけれど張りのある歌声を思い出します。これを聞くと、外は寒くても暖房のきいた室内で、くつろいでいるような気分になります。この歌はテレビが普及して海外の映画がテレビで放映されるようになってから、同じタイトルのミュージカル映画(1954年)の挿入歌というか主題歌であることを知りました。また、1942年に初演されたミュージカル映画、”スイング・ホテル(Holiday Inn)“の挿入歌であることも知りました。
 “スイング・ホテル”放映後、ホワイト・クリスマスはヒットし、シングルの売り上げが5,000万枚とのことです。1942年というと太平洋戦争が始まって翌年です。時期も時期だしあまりの人気に、アメリカ軍のラジオ局が郷愁を感じさせるために、1941年(昭和16年)のパールハーバーの18日後にこの歌を初演したという噂も流れたそうです。このような時期にミュージカル映画を作るのですから、日本とは大違いです。
 ホワイト・クリスマスの作詞者はロシア系のアメリカ人、アーヴィング・バーリン(Irving Berlin)です。彼は、クリスマスに雪が降ることはほとんどないアリゾナで、さんさんと日が降り注ぐプールでくつろいでいるときに、ホワイト・クリスマスを書きました。よく歌われているのはその一部で、オリジナルには“日が輝き、草は緑で、オレンジや椰子の木は揺れていて・・・”という内容の部分もあります。確かに、クリスマス用の飾りを付けられたモミの木、その他のクリスマス用の飾りは真っ白な雪に映えますね。そんな景色を思い浮かべると、なんとなく華やいだ気持ちになります。


(写真1)雪の朝(2007年1月23日横浜市都筑区にて)

 クリスマスに限らず程よく積もった雪はすべてを白一色に塗り替え、様々な造形を作るなど美しいのは確かです。特に雪の日の翌朝、青空に映える雪景色は美しいものです(写真1)。しかし、降る雪の度が過ぎると大変なことになります。今年(2010年)は、1月末から2月初め、アメリカの北東部では大雪となり、2月10日午後(現地時間)には積雪が139.4㎝になりました。ワシントンでは1898年~99年に記録した138.2㎝の積雪を111年ぶりに更新しました。この大雪でワシントン近郊では停電が発生し、暴風雪のため車の運転が禁止になった地域もありました。アメリカのあるウェザーキャスターが書いた記事ですが、その時期になり天気予報で「S・・」と言っただけでその地方の人々は日用品や当座の食糧を買いに走るというような内容のものを読んだことがあります。
 大雪に対する事情は日本でも同じです。古い話ですが、江戸時代後半の天保年間に、当時の雪国の生活を描いた随筆集「北越雪譜」が江戸で出版されています。著者は、越後の国塩沢(現在の新潟県魚沼市)に住む商人、鈴木牧之(ぼくし)です。「北越雪譜」の最初の方にある“初雪”いう項には次のような文章があります。

江戸には雪の降らざる年もあれば、初雪はことさらに美賞(びしょう)し、雪見の船に哥妓(かぎ)を携へ、雪の茶の湯に賓客を招き、青楼(せいろう)は雪を居続(ゐつづけ)の媒(なかだち)となし、酒亭(しゅてい)は雪を来客の嘉瑞(かずゐ)となす。・・・(中略)・・・・ 雪を観て楽しむ人の繁花(はんくわ)の暖地に生たる天幸を羨ざらんや。

 更に読み進むと、雪崩や吹雪の恐ろしさも書かれています。現在と違い、様々な情報伝達網や除雪対策が整っていない当時は大変だったと思います。そうは書きつつも、当時のその地域の名産だった“越後縮”をさらすときの雪の有用性も書かれていて、豪雪に耐えて、豪雪と戦って生きている人々の暮らしぶりも書かれています。
 今冬は暖冬気味で始まりましたが、昨年(2009年)12月中旬にいきなり強い冬将軍が来ました。(図1)は2009年12月18日の地上天気図です。典型的な冬型の気圧配置です。等圧線が何本も並んだところは新潟から西で、そこから北では北海道北部まで等圧線が描かれていません。そこが曲者で、このような地域には小さな低気圧が潜んでいます。(図2)の500hPaの天気図を見ると日本海に-42度以下のとても冷たい空気があることがわかります。つまり、それらの小さな低気圧の上空には冷たい空気があって大気の状態が不安定で、垂直方向に雲が発達しやすく、それが通過する地域で大雪が降りやすくなります。


(図1)2009年12月18日9時の地上天気図

(図2)2009年12月18日9時の500hPa天気図
(実線は等高度線、赤点線は等温線)

 12月中旬の寒波では、(図1)の天気図では等圧線が描かれていない地域にあたる、山形県の日本海側の庄内でも大雪になりました。12月17日に鶴岡市内では鶴岡公園にある市の観測記録が83㎝となり、4年ぶりに豪雪対策本部が設置されました。鶴岡市役所近くにあるお寺の知り合いのご住職から12月末に頂いたお便りに、「師走の大雪にビックリというよりもがっかりしております。」と書いてありました。別の方から頂いた年賀状にも、お墓が埋まるほどの大雪と書いてありましたので、生活するにも大変だったのでしょう。雪国のお寺はどこも同じでしょうが、ご本堂の回りに雪囲いをして、お参りに来る人に不便をかけないようにしています。準備が間に合ってくれればと思いました。

(天気図は気象庁提供)

No.109

2010.2 Categories

雪の結晶、雪の華

 子どもの頃は雪が降ると積もった雪で好きな形の物ができるし、すべてを白で覆い隠すしと、なんとなく楽しくなりました。でも実際の雪の結晶を見たことはありませんでした。降る雪を手に取ればすぐ解けるし、それはいくつかの雪の結晶が絡み合った塊でした。初めて雪の単結晶を見たのは学生のときで、冬に友人たちと箱根の強羅に行ったときのことです。夜街の中を歩いていると、チラチラと雪が降っていて、友人の一人が手袋をした手で受けると、(図1)の雑誌の表紙に載っているような樹枝状の結晶でした。肉眼ではっきりと枝が識別できるほどの大きさで、すべての枝が白く輝いていたのを覚えています。
 (図1)の表紙の雑誌の雪の結晶は顕微鏡写真です。この雑誌には雪の結晶の実験室内での発生や、数値計算による雪の結晶の発生についての科学的な解説が載っています。雪の結晶の顕微鏡写真の撮影に成功したのはベルリンの医師ノイハウス(R.Neuhauss)で、その写真を1893年に世に出しています。同じ頃、北アメリカの農村に住んでいた農夫のベントレイ(W.A.Bentley、1865~1931)が数多くの雪の結晶の写真を撮っていました。それが「雪の結晶(Snow Crystals)」という写真集(1931)になっています。この写真集には窓の霜やクモの巣に着いた露の写真も載っています。


(図1)雪の単結晶

(図2)雪の結晶の写真集

 (図2)は1962年に再出版されたものですが、私がこの写真集を初めて見たのは学生の頃、日本橋の丸善書店でした。7千数百円の価格は学生の身分では高価で、そのときに買うことはできませんでした。この写真集に載っている写真は、個々の雪の結晶の写真がベントレーの手によって切り取られたものなので、科学的写真ではないという意見があったことも事実ですが、多くの人々や研究者が言っているように、雪の結晶の美しさを充分に伝えています。
 雪の結晶の研究で世界的に有名な日本人がいます。世界で初めて雪の結晶を実験室で作った北海道大学の中谷宇吉郎博士です。(図1)の雑誌の記事もそうですが、海外の雪の結晶について書かれた本を見ると、必ずといっていいほど中谷宇吉郎博士の名前が出ています。中谷博士はベントレーの写真集を見て雪の結晶の美しさに魅せられ自ら写真を撮り、ついに実験室で雪の結晶を作ることに成功しました。実験室の中では温度や湿度を変化させることができるので、その違いにより雪の結晶の形が違うことがわかりました。その結果により、温度と湿度から雪の結晶の形がわかる「中谷ダイヤグラム」を作りました。
 中谷博士は随筆家としても有名です。「雪は天から送られた手紙である」という言葉を聴いたこと、読んだことがあると思いますが、中谷博士が書いた随筆に由来するものです。

・・・、天然に見られる雪の全種類を作ることが出来れば、その実験室内の測定値から、今度は逆にその形の雪が降ったときの上層の気象の状態を類推することが出来るはずである。 このように見れば雪の結晶は、天から送られた手紙であるということが出来る。

この文章は、昭和13年に岩波新書の創刊時の一冊として刊行された「雪」に載っています。
 日本人には雪の結晶でもう一人有名な人がいます。話は江戸時代に遡ります。「雪花圖説(せっかずせつ)」(天保3年:1833)と「續雪華圖説」(天保11年:1840)を世に送り出した、関東下総国古河(現在の茨城県古河市)の城主、土居利位(どい・としかつ、1789~1848)です。土井利位は天保8年(1837)に大塩平八郎の乱を治めました。


(図3)古河市歴史博物館図録

「雪華圖説」は利位が古河で顕微鏡(今よりは簡単な物)を使って観察した雪の結晶を書き写したもので、「續雪華圖説」は大阪や京都で観察した時のものです。(図3)にその一部が載っていて、顕微鏡写真と比べると、雪華模様ともいえますが、雪の結晶が六角形であるという特徴を捉えています。利位は蘭学を学んでいたので、同書には自然現象に対する科学的な解説もあり、上昇気流により雲が発生することも書かれています。 当時の書物は木版ですから両書はたくさん出版されませんでした。また、それに載っている雪の結晶は細密画ではありませんが模様として美しいもので、利位自身も印籠や硯箱などの身の回りの物(図3)に使用していました。雪華の図柄は当時の人々にもてはやされ着物の柄にもなり、浮世絵にも描かれました。
雪の結晶の図柄は今でもいろいろと使われていますね。古河市では6・3制により昭和22年に開校した古河中学校(現古河市立古河第一中学校)の校章が土井利位の図説から取ったものです。今でも旧古河市の小中学校では多くの学校が雪華の模様を校章としています。
古河市を訪れると雪華は町のシンボル的存在で、あちこちで雪華を眼にします。(写真1)は町の繁華街の街路灯です。古河市歴史博物館の隣にある古河文学館の2Fのレストランの看板(?)の装飾にも雪華が描かれていました(写真2)。古河第一小学校を取り巻く歩道の敷石(写真3)もそうですし、その学校の生垣にも雪華の模様(写真4)が使われていました。ちなみに、古河市歴史博物館には土居利位に関係したものが所蔵されています。土井家の墓所がある正定寺にも利位の描いた雪華の図集があり、(写真5)のように本堂の窓ガラスも雪華のような模様がありました。本堂内部にも雪華模様があしらった物がありました。


(写真1)街路灯の上にある雪華模様

(写真2)レストランの看板

(写真3)古河第一小学校周辺の敷石の雪華模様

(写真4)古河第一小学校生垣の雪華模様

(写真5)正定寺の本堂

No.105

2009.10 Categoriesその他

積乱雲を作ってみよう

 夏の午後や夕方、ムクムクと空高くそびえたつ入道雲、積乱雲。この雲が成長するようすを実験で観察してみましょう。家庭にある道具、材料で簡単にできます。準備するものは、牛乳、水、ストロー、ガラスコップ、ローソク、ガラスコップを乗せる台です。もちろん、ビーカーやコーヒーサーバーを使ってもかまいません。

 実験の手順です。(図1)
 ①コップに水を入れて台の上に置きます。台は下からローソクでコップの底をあぶれるような台です
 ②コップの水が静まったら、冷たい牛乳をストローでコップの底に注ぎます。
 ・ストローで牛乳を吸い上げるときは、味が感ずるまで吸い上げ、吸い口側をすぐ指で蓋をします。少しぐらいなら飲んでもいいでしょう。
 ・ストロー水を入れたコップの縁に沿って入れ、底に着いたら吸い口側の蓋をした指を離し、静かにストローを引き上げます。
 ③コップの中は上が水で底のほうに牛乳がたまっています。牛乳の厚さは2cmぐらいにします。
 ④ローソクに火をつけ、コップの底を暖めてください。台がなければ、手で持ったまま暖めてください。


(図1)準備するものと実験の手順
Zbigniew Sorbjan(1996)の方法を改良。

さあどうなるでしょう。

 底のほうから白い柱がスーッと伸び、水面に着くと両側に広がります(図2)。白い柱が伸びているときは(図2)(右)の手前の発達中の積乱雲みたいですね。白い柱が両側に広がった様子は、(図2)(右)奥にあるカナトコ雲と似ていませんか。積乱雲も対流圏内では上に向かって成長しますが、大気がとても安定している成層圏との境の圏界面にぶつかると両側に広がってカナトコ雲を作ります。


(図2)実験で作った積乱雲と実際の積乱雲

 コップの中でなぜ白い柱ができたのでしょう。下から暖めたので、水面と温度差ができ、温まった牛乳が上昇して白い柱ができました。積乱雲は地面に近いところの空気と上空の温度差が大きくなると発生発達します。夕立は夏に地面が太陽で熱せられ、上空と下層の温度差が大きくなって発生した積乱雲の雷雨です。このような雷雨の積乱雲は夕暮れになるとしぼんでしまい、雷雨も止みます。
 積乱雲が発生発達するのは日射の影響だけではありません。下層に温かく湿った空気が流れ込んで上昇するときも、積乱雲が発生発達します。このようなときは時間帯に関係なく積乱雲が発生発達して強い雨が降ります。しかも、雨の素になる下層の水蒸気が同じ地域に流れ込むと、次々と積乱雲が発生して同じところに襲いかかり豪雨になります。もちろん激しい雷を伴っています。
 このため夜中や午前中に雷が鳴って強い雨が降っているときは災害になるような大雨のこともあります。夜中に土石流を起こすような集中豪雨があったときは、「雨の音と雷の音がすごかった」と付近の人たちが言っています。「集中豪雨」の言葉が生まれた京都府南部の山城地域の豪雨のとき、遠く離れた京都市内でも雷鳴が聞こえたそうです。1994年9月上旬に伊丹空港ビルの電気室が水没して空港が使えなくなった大阪府豊中市の豪雨のとき、私は枚方市北部に住んでいましたが、夜遅くまで激しい雷が鳴っていました。
 昨年(2008年)の夏は全国各地でやたらと雷雨が多く、悲しい事故も起きました。いつもなら北海道の北にあるジェット気流がなぜか大きく蛇行して日本の上を流れました。このため、上空に寒気が入って上空と下層の温度差が大きくなり、おまけに下層には暖かく湿った気流が入りやすくなりました。このため積乱雲が発達しやすくなり、大雨を降らせやすい雷雨があちこちで発生しました。
 天気予報の解説で、「暖かく湿った空気が入って・・・」とか「上空に寒気が入って・・・」と言ったときには積乱雲が発達しやすくなります。大雨に注意してください。冬に「上空に強い寒気が入って・・・」と言っていたら、大雪に注意してください。

No.102

2009.7 Categoriesその他

フェーン現象

 空気の塊が上昇すると膨張するので気温が下がります。逆に下降すると圧縮され気温が上がります。空気が圧縮されると気温が上がることは、自転車のタイヤに手押しポンプで空気を入れると、ポンプが熱くなることを経験したと思います。水蒸気を含んでいる空気の塊が水滴を作りながら上昇するときは、温度が100m上昇するごとに約0.65度低くなります。水蒸気を含む量の少ない乾燥した空気の塊が上昇するときは、温度が100m上昇するごとに1℃低くなります。
 気温20℃の空気の塊が水滴(雲粒)を作りながら山の斜面を上昇し、2,000mの山を越え反対側に行ったときの温度の変化を見てみましょう。(図1)を見ながら読んでください。


(図1)フェーン現象の説明

空気の塊の温度は100m上昇するごとに0.65℃下がるので、標高2,000mの山頂に着いたときの温度は20℃-0.65℃×20=7.0℃となります。空気が山の斜面を降りるとき、空気は圧縮されます。タイヤに空気を入れるとポンプが熱くなることからわかるように、圧縮された空気の塊の気温は上がります。100mごとに1℃高くなるので、7.0℃+1℃×20=27℃になります。山の風上側よりも7℃も気温が高くなりました。しかも、水蒸気は山の斜面を上昇するときに雲粒になってしまったので、空気は乾燥しています。


(図2)春先、日本海側が季節はずれの暖か
さになった日の天気図(2009年3月18日9時)

 日本海側を低気圧や台風が通過すると、このようなわけで日本海側では太平洋側よりも気温が高くなり乾燥します。フェーン現象と呼んでいます。今年(2009年)も3月18日から19日にかけて南から高気圧に覆われて、山越えの暖かい気流が日本海側に入り込みました。18日(図2)の金沢の最高気温は23.6℃、新潟では22.6℃、東京では20.7℃と日本海側の方が高くなりました。しかも、金沢、新潟とも最小湿度がそれぞれ16%、14%と低く、日最大風速が10m/sとなりました。


(図3)鳥取市大火の天気図
(昭和27年4月17日午前9時:気象庁提供)

 こんなときに火事が起こったら大変です。古い話ですが昭和27年(1952年)4月17日に山陰の鳥取県で大火事がありました。理科年表によるとこの火事で5,228個の住宅が焼け、死者も2名出ています。(図3)がそのときの天気図です。高気圧が南から日本列島をおおっていて、日本海に発達した低気圧があり、南から暖かい空気が日本海側に入りやすい状態になっています。気象庁のホームページで調べると、鳥取県の境の最高気温は26.1℃、島根県浜田の最高気温は25.5℃でした。4月なのに初夏の気温ですね。湿度もおそらく低かったことでしょう。
 昭和58年(1983年)4月24日~28日にかけて東北の太平洋側各地を中心に山林火災がありました。岩手県久慈市が特にひどかったです。当時、私は釜石市に住んでいて、すぐ北にある大槌町でもこの間に山林火災があり、火は市街地のすぐ近くまで燃え広がりました。鎮火のあと行きましたが、市街地にある住宅地のすぐ背後の山が真っ黒になっていたのを覚えています。天気図は省略しますが、日本列島は南から高気圧におおわれていて、北海道の北を低気圧が発達しながら通過しています。東北地方の風は西よりです。大槌町の北にある宮古測候所の観測値を見ると、4月25日には最高気温が28.4℃と真夏並みで最小湿度は16%でした。
 フェーン現象とはもともとヨーロッパの現象です。ヨーロッパ、アルプスの北にあるドイツ南部ババリア地方のベネディクトではこんなことが起こりました。1704年1月28日、2,000人のチロル軍がベネディクト修道院を攻めようとして、コーチェル湖の北に来ていました(図4)。当時、修道院の西側には沼地帯が広がっていました。この頃のヨーロッパは今より寒く、その湖や沼地は全部凍っていました。チロル軍はそこを渡って攻めようとしていたのです。ところが、この日にフェーン現象が起こりコーチェル湖の南にある谷間から強く暖かい南風が吹いて気温が上がり、沼地帯の氷が3時間から4時間後に解けてしまい、ベネディクト修道院は助かりました。


(図4)ベネディクト修道院周辺の地図

 この修道院の西方約40㎞にある丘(989m)の上で古くから気象観測が続けられていますが、始まったのは1789年頃からなので、当時の観測記録はありません。しかし、その当時ベネディクト修道院に居たカルロス修道士がそのときの状況を記録していました。その翌日は、キリスト教の祭典のひとつである、“アナスタシア”なので、カルロス修道士はこの日のことを、“アナスタシアの奇跡”、または“コーチェル湖の奇跡”と書いています。そのときのようすを1720年頃にルーカス・ザイスが描いていて、その絵がベネディクト修道院に残っているそうです。
 フェーン現象で真冬に気温が一気に上がることはあるそうなのですが、張っていた氷が3時間か4時間後に解けるかどうかを、この著者は検証しています。当時の軍隊の装備から重さを推定し、その重さに耐えられる氷の厚さを推定しています。そしてその厚さの氷が解けるのにどのくらいの時間が必要かを推定しています。その結果、当時の湿地帯に張っていた氷が解けるのに6時間は必要だと結論しています。著者はカルロス修道士がそのとき受けた印象をドラマチックに表現したのだろうと書いていました。
 この記録を科学的に検証したのはドイツ人で、イギリス気象学会のウエザーという機関紙(Weather-January 2009,Vol64,No.1)に載っていました。このような歴史的な記述を科学的に確かめる文化はおもしろいと思いました。

No.98

2009.3 Categories

桜前線


(写真1)吉野の吉水神社からの桜(一目千本)

 桜餅、桜鱒、桜貝・・・。桜が付いた食べ物や生き物があります。奈良県吉野の吉水神社には、太閤さんが花見をした“一目千本”といわれる場所があります(写真1)。このような桜好きの日本人ですから、昔の日記にも桜に関した記述がありました。これらを調べることにより気候の変化が調べられています。現在でも生物気候観測のために、各気象台が標準木を決めて桜の開花日を観測しています。
 私事ですが、弟は東京都世田谷区内の小学校に入学しました。入学式の日は桜が満開で、記念写真は満開の桜の下でした。この年は、それまでの年よりも桜の満開が遅かったなという印象が残っています。後になっていろいろなデータを調べると、この年の春は寒かったことがわかりました。年によって桜の開花時期が違うことは皆さんも良くご存知と思います。

 各気象台で観測された開花日をもとに等値線を引くと、天気図の前線が移動していくように、その線が北上していくので桜前線という言葉で表現されています。(図1)は桜の開花の日の平年日を地図上に表した桜の開花日の等期日線図で、1971年から2000年の平年値です。この図によると、南西諸島を除く日本列島では、四国や九州の一部が一番先に咲き、日が進むに連れて北上していることがわかります。今まではテレビ、ラジオのニュースで、四国や九州で桜が咲いたという話題を聞いてから東京で桜が咲いたことが多かったと思います。


(図1)桜の開花日の等期日線図(1971年~2000年の平年値) (気象庁提供)
(表1)日本列島で最初の桜の開花日(1999年~2008年)
1999200020012002200320042005200620072008平年値
(1971
~2000年)
場所甲府熊本高知静岡
横浜
福岡
高知福岡宮崎高知東京名古屋
静岡
東京
高知
開花日3/183/243/213/153/183/173/283/153/203/223/23
(気象庁提供のデータによる)

 

 (表1)は1999年から2008年までの、南西諸島を除いた日本列島の桜の開花日で、各年に最初に桜の開花を観測した場所と日付です。もちろん、各気象台の観測値を基にしました。年によって多少の違いはありますが、ほとんど四国や九州で東京よりも先に桜が開花しています。しかし、2007年と2008年は四国や九州ではなく東京で先に桜が咲いてしまいました。2007年は“温暖化が始まっている”というデータも公表され、日本列島で一番先に東京で桜が開花したことは話題になりました。都市化の影響だとも言われもしました。

 ところで、桜の美しさは年によって違いがあります。ここ数年では昨年(2008年)の桜はえらく美しかったように思います。横浜の都筑区にある当社研究所周辺の桜の美しさも格別でした(写真2)。その時期の昼休みは連日、桜の下で昼食を取るグループがありましたし、カメラを持って桜見物をする人も数多く見かけました。


(写真2)桜に彩られた国土環境研究所(2008年)

 2008年4月20日、毎日新聞「時代の風」の中で、瀬戸内寂聴さんが「美しすぎる花のあとに」という見出しで書いています。その最初の部分です。

 今年の桜は例年にもまして輝くように美しく華やかだった。桜だけではない。京都の嵯峨野では至る所の家々の花々が美しく咲きほこっている。
 わが寂庵でも、花という花が遅れたり早すぎたりしながら椿も例年より、どの木にもびっくりするような大きな花がつき、いつまでも散ろうとしない。山桜もしだれ桜も、源平咲きの桃も、命のかぎりという意気込みで咲き続けていた。

 この年は桜の時期までにいろいろな事があったので、そのことを言うための前置きですが、この年の桜の美しさは京都でも格別な美しさだったといえるでしょう。なぜ昨年は桜の開花が早く美しかったかという、気候学的な位置づけは何年後あるいは何十年後にわかることと思います。
 ところで、昨年(2008年)の夏、横浜市北部では桜の木に毛虫(モンクロシャチホコ)が大発生し、丸坊主になった木もありました。その木の下は糞で赤く染まっていました。最近桜の木を見たところ、丸坊主にならなかった木はたくさんの太った芽が付いていていますが、丸坊主になった木には枝先にやせ細った芽が付いているだけでした。今年の桜はどのような咲き方になるのでしょう。

No.96

2009.1 Categoriesその他

風を測る、電波で風を測る


(写真1)風見鶏の館の風見鶏

 「風を測る」と言われると、皆さんはどのような道具、機械を思い浮かべますか。鶏の形をした物が古い西洋の家の屋根についているのを見たことがあると思います。そう、風見鶏のことです。(写真1)は神戸市の異人館街にある風見鶏の館の屋根についている風見鶏です。矢の部分が風の吹いてくる方向に向いて、風向がわかるようになっています。


(写真2)風向風速計
(気象庁内気象科学館)

 風にたなびく鯉のぼりからも風が吹いているかどうかわかります。これを応用したものが、高速道路で見かける“吹流し”です。 山間部でよく見かけます。吹流しのたなびき方から風の強さをドライバーに知らせ、横風で車がふらつきかねないことを知らせています。
 風見鶏や鯉のぼり、吹流しは感覚的に風向きや風の強さがわかります。風向や風速を数値的に測るためには、(写真2)のような飛行機みたいな形をした風向風速計を使います。プロペラと反対側に垂直尾翼が付いた部分がありますね。垂直尾翼があるために全体が風の吹く方向を向き、プロペラが風の強さに応じて回転します。これらが電気信号に変えられて風向と風速を表します。

 次は、電波で風を測る話です。空間的な雨や雪の強さを測るためにレーダーが使われています。レーダーから出た電磁波は雨や雪で反射(本当は特別な散乱)されるだけでなく、空気中に含まれている水蒸気密度の違いがあるところでも反射されます。水蒸気密度の違いがあるところは風に流されるので、連続して電波を出してそこから反射(散乱)されて帰ってくる電波を観測すると風の向きや風の強さを計算することができます。地面に電波の発信機と受信機を置いて上に向けて電波を発射し、散乱されて帰ってくる電波を受信して、色色な高さの風向風速を10分間隔で観測しています(図1)。このような機械のことをウインドプロファイラといいます。


(図1)ウインド・プロファイラー(提供:気
象庁)

(写真3)熊谷地方気象台のウインドプロファ
イラ

 ウインドプロファイラの観測所は全国に31箇所あります。観測できる高さは、天気や季節で違っていて、最大で9㎞まで観測ができます。(写真3)が熊谷地方気象台にあるウインドプロファイラです。カバーで覆われていますが、その中に5本の送信機と受信機が入っています。

 それではウィンドプロファイラの観測結果を見てみましょう。2007年7月14日14時過ぎに、大型で強い台風4号が鹿児島県鹿屋市付近に上陸し、本州南岸沿いを東に進みました(図2)。


(図2)2007年 台風4号の経路図

図3→別ウィンドで開きます)はこの台風がウィンドプロファイラのある、鹿児島市のすぐ南を通過した14日の観測結果で、(図4→図3と同ウィンド)は台風が鹿児島市に最も接近したときの観測結果です。矢羽が風の吹いてくる方向、つまり風向を現し、羽の数が多いほど強い風が吹いていることを現しています。ちなみに、短い矢羽が5ノット(約2.5m/s)、矢羽1本が10ノット(約5m/s)、黒く塗りつぶされた旗ひとつで50ノット(約25m/s)を意味しています。
 両方の(図3)と(図4)からわかるように、台風が接近する前は東寄りの風が吹いています。台風が接近するに連れて風向が北寄りに変わり、台風が抜けてからは西寄りに変わっています。風向が反時計回りに変化していますね。このような風向の変化は台風が自分の居るところより南側を通ったときの風の変化の特徴です。しかも上空の風も同じような変化になっています。
 地面に近いところを中心に風の強さを見ると、8時から11時頃までは黒い三角の旗が続いていますが、台風が通過したあとの16時以降は黒い旗が現れていません。通過前は25m/s以上の風でしたが、25m/s以下の風になっています。台風の進行方向の東側は危険半円、西側は可航半円というのを聞いたことがあると思います。鹿児島市は台風が通過する前は台風の東側の危険半円にあり、通過後は台風の西側の可航半円に入ったので、このようなことになりました。
 ウインドプロファイラは電波を上に向けて出しているので、その上を通過するものは何でも観測してしまいます。でもそれらは特徴的な観測結果になるので、風ではないと判断して自動的に取り除かれます。しかし、ある秋の風が穏やかな日の夜から翌日の明け方にかけて、福井で2000m以下の高さでとても強い風が観測されました。その後の調査の結果から観測された強い風は渡り鳥だとわかりました。ここでもそのデータを見せたかったのですが、(図3)や(図4)を作った気象庁月報というCDには、渡り鳥を観測したことによる強風部分は削られていました。興味のある方は、測候時報という雑誌の第70巻(2003年)の102ページと103ページ(第3巻)をみてください。もちろん、今では渡り鳥による観測結果は自動的に取り除かれています。

※台風やウインド・プロファイラーの観測データは気象庁提供のものを使用しました。

No.93

2008.10 Categoriesその他

めぐる季節のもと

 ガリレオ・ガリレイの有名な言葉で、「それでも地球は動いている」というのがありますね。地球は自転していて、太陽の周りを公転しています。公転軌道は楕円で、いちばん太陽に近いのは1月3日頃、最も太陽から遠くなるのは7月3日頃です(図1)。でも、このことって不思議に思いませんか。日本がある北半球のことを考えると、太陽に最も近い1月が暑くなって、太陽から最も遠い7月が寒くなってもいいはずです。しかし、実際は逆になっています。


(図1)太陽と地球の距離

 北極と南極を通る地球の自転軸は北極側から見ると、公転軌道に対して左側に23.5度傾いています(図2)。


(図2)地球の公転

 このため、冬は南半球を中心に太陽の光が当たって、南半球の方が北半球よりもたくさんのエネルギーを太陽から受けます。反対に、夏は北半球を中心に太陽の光が当たるため、北半球の方が南半球よりもたくさんのエネルギーを受けます。春分と秋分は北半球、南半球とも平等に太陽の光が当たり、太陽から受け取るエネルギーも平等です。つまり、地球が太陽の周り回る公転面に対して地球が自転している自転軸が傾いているため、季節によって太陽から受け取るエネルギーの差ができ、四季の変化ができます。

 (図3)から(図6)は静止気象衛星「ひまわり」の可視画像です。“気象衛星ひまわりの「可視画像」と「赤外画像」”でお話しましたが、可視画像は太陽の光が地球に当たった反射光を見ています。このため、夜は何も写りませんね。冬至、春分と秋分、夏至にはどうなっているか、ひまわりの全球画像で見ていきましょう。


(図3)冬至の可視画像

(図4)春分の可視画像

(図5)夏至の可視画像

(図6)秋分の可視画像

 冬至のときは南半球を中心に太陽が当たるので、(図3)の午前2時と午後10時の画像は、それぞれ右端と左端だけ光が当って白くなっています。しかも下の方の南半球を中心に太陽が当たっている部分が多く、南極付近は白く光る輪があります。午前6時と午後5時の画像でも、雲画像の見えている部分、太陽の光が当たっている部分が南半球の方が多くなっています。正午には北極付近が黒くなっていて光が当たっていません。
 春分(図4)と秋分(図6)では午前2時、午後10時とも左右のまんなかあたり、赤道に光が当たっていて、北も南も光が当る割合が同じです。午前6時と午後5時も北半球と南半球で光が当たっている部分の面積が同じです。正午には全体に光が当っていて、南極も北極も黒くなっていません。
 夏至(図5)では冬至と逆に午前2時と午後10時には北半球の方が光の当たっている部分が多く、北極付近は白く光る輪があります。午前6時と午後5時も北半球の方が南半球よりも光が当たっている部分が多くなっています。正午には南極付近が黒くなっていて光が当たっていません。
 ひまわりは東経140度線上の赤道上にあります。ここに載せたひまわり画像には緯度線(水平方向)と経度線(縦方向)が10度毎に描かれています。東経140度線は画面の真ん中を上から下にまっすぐ伸びている線です。冬至(図3)か夏至(図5)の午前6時か午後5時の画像で光が当っている部分と影の部分の境に線を引き、東経140度線との角度を測ると、大体23.5度になります。
 地球の公転面に対して自転軸が傾いていることは、確か小学校で習ったと思いましたし、図鑑でも(図2)のような“絵”を見たことがあるでしょう。現在では静止気象衛星のおかげで、(図3)から(図6)のような写真を見ることができ、これから、公転面に対して自転軸が傾いていて、北半球では冬至には太陽光があたる部分が南半球よりも少なく、夏至には南半球よりも多いことが実感できることと思います。
 冬至には(図3)の5枚の画像からわかるように、北極周辺には全く光が当っていないので、一日中真っ暗だとわかります。逆に、夏至には(図5)から北極周辺が白くなっているので、日が沈まないことがわかるでしょう。
このような現象が起こる緯度が、北半球、南半球とも66.5度よりも高い緯度で、北半球では北極圏、南半球では南極圏と言います。北欧やアラスカの観光パンフレットを見ると、真夜中に(図7)のように太陽が幾つも写っていて、地面に太陽が沈まない白夜の写真を見ます。写真は多重露出で撮っているので太陽が幾つもありますが、実際に太陽が幾つも見えるわけではありません。この緯度以北では夏至の前後には太陽が沈むことがありません。


(図7)白夜の太陽

※気象衛星画像は気象庁提供のものを使用しました。

No.91

2008.8 Categoriesその他

太平洋戦争と天気図、天気予報

 1941年12月7日(日本時間では8日)の日曜日の朝7時過ぎ、ハワイ・オワフ島では多くの軍人は週末の朝を楽しんでいました。一方、航空母艦赤城を旗艦とし、6隻の空母を従えた日本海軍の機動部隊は、現地時間の午前5時30分にホノルルから約230マイル北に来ていました。そこから飛び立った、淵田中佐を隊長とする第1次攻撃隊は、高度2,000m付近にある厚い雲の中や上を、パールハーバーに向けて飛行中で、海面を見ることはできませんでした。
 淵田隊長はパールハーバーにあと1時間ほどのところで、レシーバーを耳にしてラジオ方位探知機のスイッチを入れ、ダイアルを回すと、軽快なジャズが高い感度で入ってき、ホノルルの放送局からだと確信しました。そのうち朝の気象情報の番組に変わり、「オアフ島の天候は半晴で、山の上には雲がかかっているが、雲の底の高さは3,500フィート(約1,000m)、視程は良好で、北の風十節」と放送されました。淵田隊長は攻撃隊にとって好都合な気象情報だとわかり、最初の爆弾が午前7時55分に投下されました。
 このように気象情報や天気予報は重要な戦略情報です。日本では1941年12月8日(日本時間)から軍の命令でラジオから天気予報が放送されなくなりました。各地の気象台や測候所からの観測データは、すべて暗号にされて中央気象台に送られるようになりました。中央気象台から放送される気象電文もすべて暗号化されました。
 戦争中、日本人の生活は物資の不足でだんだんと大変になっていきましたが、天気は毎日変化します。台風や嵐もお構いなしにやってきます。そんな中、1942年8月27日に発達した台風が九州に上陸し、戦争中最大の被害をもたらしました。被害の中心は西日本です。さすがに台風のときは特別な情報が出るようになりましたが、この台風がきっかけです。
 終戦は1945年8月15日ですね。ラジオの天気予報番組の再開は8月22日で、東京から再開されました。今では当たり前のように、毎日ラジオで聞くことができる、テレビや携帯電話で見ることができる天気予報や気象情報は平和の象徴といえるでしょう。
 ところで、(図1)は1941年12月8日の天気図、(図2)は戦時中最大の被害をもたらした台風が九州上陸前の天気図(1942年8月27日)、(図3)は終戦の日の天気図、(図4)は兵庫県に大きな被害をもたらした阿久根台風が沖縄付近にある1945年10月9日の天気図(九州北部上陸は10月10日)、(図5)は現在の天気図です。


(図1)1941年12月8日の天気図

(図2)1942年8月27日の天気図

(図3)1945年8月15日の天気図

(図4)1945年10月9日の天気図

(図5)2008年7月10日の地上天気図

(以上、気象庁提供資料)

 (図1)の天気図から見ていくとその違いに気がついたでしょうか。戦争を開始したときの1941年の天気図よりも、1942年や終戦のときの天気図の方が、観測データの入っている地点数が多くなっています。特に中国大陸は顕著です。しかし、戦後すぐの天気図で天気記号が入っているのは日本だけです。現在の天気図は地図をびっしりと埋めるほど観測データは入っていませんが、データが入っている地点は各地域に分散しています。今でこそ世界各国で気象情報の交換が行われていますが、終戦後しばらくの間、海外からの観測情報、特に中国やシベリアからの情報を入手することができませんでした。当時、少ない情報で天気予報を行っていた気象関係者の苦労がしのばれます。

No.85

2008.2 Categories

鴨の冶部煮

 今年(2008年)の節分は2月3日で4日は立春です。(図1)は東京、京都、金沢の冬(12月~2月)の日平均気温の平年値のグラフですが、1月末から2月初めが最も気温が低い時期であることがわかります。冬の寒い日には、温かい食べ物が何よりのご馳走です。とろみの付いた物はなかなか冷めなくて、寒い日には特においしいです。


(図1)日平均気温の日別平年値(12月~2月)

 子供の頃、祖母が湯飲み茶碗に片栗粉と砂糖を入れてお湯を入れて練った、葛湯をおやつに作ってくれました。薄甘でちょっぴり酸味のようなものあり、熱いのをフーフーと冷ましながら食べるのが好きでした。

 “きつねうどん”は煮付けた大きな油揚げをのせたうどんですが、“たぬきうどん”は、東京と京都では違っています。東京で“たぬきうどん”を注文すると、揚げ玉(関西では天かす)をのせた物が出てきますが、京都では違ったものが出てきます。“きつねうどん”と同じように少し甘く炊いた油揚げを刻んだものと細く斜めに刻んだネギの載ったうどんに、うどんつゆの味がする葛餡のかけ、おろし生姜が載ったものが出てきます。ただし、ほとんどの店が冬の間だけのようです。私がその“たぬきうどん”を初めて見たのは京阪三条駅の近くの食堂で、土地のご婦人が注文していました。もちろん冬です。「わっ、おいしそう!」と思い、別の機会に注文したことがあります。生姜味がさわやかで、体が温まりました。

 加賀地方にはとろみの付いた汁物に鴨の冶部煮があります。能登半島で生活しているときに食べましたが、身も心も温まりとてもおいしかったです。妻が友人から作りかたを教えてもらい、冬になると夕食に出ることがあります。各家庭でいろいろな作り方がありますが、我が家の場合は次のようにしています。

 たっぷりの鰹節でだしをとり、醤油と砂糖で味付けしたすまし汁に、一口大に切ったサトイモ、人参、たけのこ、しいたけ、生のすだれ麩と小麦粉をまぶした鶏肉入れて煮ます。これを椀に入れて絹さやを飾ります。食べるときは、山葵を溶いて食べます。金沢市内の飲食店では鴨を使うのでしょうが、家庭では鶏肉で充分です。白身魚でもいいようです。肉にまぶした小麦粉が溶けて汁にとろみが付きます。

 釜石時代の友人が金沢を訪れたときに兼六園などを案内し、昼食に入って飲食店で食べてもらったところ、珍しがられ評判が良かったです。能登での生活が終わり、関東に住んでいる親戚が集まったときにも出しましたが、やはり評判が良かったです。

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