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お天気豆知識

冬の記事一覧

No.110

2010.3 Categories

ホワイト・クリスマスそして

 “ホワイト・クリスマス”というと、私は子どもの頃レコード(SP版)で聞いた、“I’m dreaming of a white Christmas ・・・・“と歌いだされる、ビング・クロスビー(Bing Crosby)のソフトだけれど張りのある歌声を思い出します。これを聞くと、外は寒くても暖房のきいた室内で、くつろいでいるような気分になります。この歌はテレビが普及して海外の映画がテレビで放映されるようになってから、同じタイトルのミュージカル映画(1954年)の挿入歌というか主題歌であることを知りました。また、1942年に初演されたミュージカル映画、”スイング・ホテル(Holiday Inn)“の挿入歌であることも知りました。
 “スイング・ホテル”放映後、ホワイト・クリスマスはヒットし、シングルの売り上げが5,000万枚とのことです。1942年というと太平洋戦争が始まって翌年です。時期も時期だしあまりの人気に、アメリカ軍のラジオ局が郷愁を感じさせるために、1941年(昭和16年)のパールハーバーの18日後にこの歌を初演したという噂も流れたそうです。このような時期にミュージカル映画を作るのですから、日本とは大違いです。
 ホワイト・クリスマスの作詞者はロシア系のアメリカ人、アーヴィング・バーリン(Irving Berlin)です。彼は、クリスマスに雪が降ることはほとんどないアリゾナで、さんさんと日が降り注ぐプールでくつろいでいるときに、ホワイト・クリスマスを書きました。よく歌われているのはその一部で、オリジナルには“日が輝き、草は緑で、オレンジや椰子の木は揺れていて・・・”という内容の部分もあります。確かに、クリスマス用の飾りを付けられたモミの木、その他のクリスマス用の飾りは真っ白な雪に映えますね。そんな景色を思い浮かべると、なんとなく華やいだ気持ちになります。


(写真1)雪の朝(2007年1月23日横浜市都筑区にて)

 クリスマスに限らず程よく積もった雪はすべてを白一色に塗り替え、様々な造形を作るなど美しいのは確かです。特に雪の日の翌朝、青空に映える雪景色は美しいものです(写真1)。しかし、降る雪の度が過ぎると大変なことになります。今年(2010年)は、1月末から2月初め、アメリカの北東部では大雪となり、2月10日午後(現地時間)には積雪が139.4㎝になりました。ワシントンでは1898年~99年に記録した138.2㎝の積雪を111年ぶりに更新しました。この大雪でワシントン近郊では停電が発生し、暴風雪のため車の運転が禁止になった地域もありました。アメリカのあるウェザーキャスターが書いた記事ですが、その時期になり天気予報で「S・・」と言っただけでその地方の人々は日用品や当座の食糧を買いに走るというような内容のものを読んだことがあります。
 大雪に対する事情は日本でも同じです。古い話ですが、江戸時代後半の天保年間に、当時の雪国の生活を描いた随筆集「北越雪譜」が江戸で出版されています。著者は、越後の国塩沢(現在の新潟県魚沼市)に住む商人、鈴木牧之(ぼくし)です。「北越雪譜」の最初の方にある“初雪”いう項には次のような文章があります。

江戸には雪の降らざる年もあれば、初雪はことさらに美賞(びしょう)し、雪見の船に哥妓(かぎ)を携へ、雪の茶の湯に賓客を招き、青楼(せいろう)は雪を居続(ゐつづけ)の媒(なかだち)となし、酒亭(しゅてい)は雪を来客の嘉瑞(かずゐ)となす。・・・(中略)・・・・ 雪を観て楽しむ人の繁花(はんくわ)の暖地に生たる天幸を羨ざらんや。

 更に読み進むと、雪崩や吹雪の恐ろしさも書かれています。現在と違い、様々な情報伝達網や除雪対策が整っていない当時は大変だったと思います。そうは書きつつも、当時のその地域の名産だった“越後縮”をさらすときの雪の有用性も書かれていて、豪雪に耐えて、豪雪と戦って生きている人々の暮らしぶりも書かれています。
 今冬は暖冬気味で始まりましたが、昨年(2009年)12月中旬にいきなり強い冬将軍が来ました。(図1)は2009年12月18日の地上天気図です。典型的な冬型の気圧配置です。等圧線が何本も並んだところは新潟から西で、そこから北では北海道北部まで等圧線が描かれていません。そこが曲者で、このような地域には小さな低気圧が潜んでいます。(図2)の500hPaの天気図を見ると日本海に-42度以下のとても冷たい空気があることがわかります。つまり、それらの小さな低気圧の上空には冷たい空気があって大気の状態が不安定で、垂直方向に雲が発達しやすく、それが通過する地域で大雪が降りやすくなります。


(図1)2009年12月18日9時の地上天気図

(図2)2009年12月18日9時の500hPa天気図
(実線は等高度線、赤点線は等温線)

 12月中旬の寒波では、(図1)の天気図では等圧線が描かれていない地域にあたる、山形県の日本海側の庄内でも大雪になりました。12月17日に鶴岡市内では鶴岡公園にある市の観測記録が83㎝となり、4年ぶりに豪雪対策本部が設置されました。鶴岡市役所近くにあるお寺の知り合いのご住職から12月末に頂いたお便りに、「師走の大雪にビックリというよりもがっかりしております。」と書いてありました。別の方から頂いた年賀状にも、お墓が埋まるほどの大雪と書いてありましたので、生活するにも大変だったのでしょう。雪国のお寺はどこも同じでしょうが、ご本堂の回りに雪囲いをして、お参りに来る人に不便をかけないようにしています。準備が間に合ってくれればと思いました。

(天気図は気象庁提供)

No.109

2010.2 Categories

雪の結晶、雪の華

 子どもの頃は雪が降ると積もった雪で好きな形の物ができるし、すべてを白で覆い隠すしと、なんとなく楽しくなりました。でも実際の雪の結晶を見たことはありませんでした。降る雪を手に取ればすぐ解けるし、それはいくつかの雪の結晶が絡み合った塊でした。初めて雪の単結晶を見たのは学生のときで、冬に友人たちと箱根の強羅に行ったときのことです。夜街の中を歩いていると、チラチラと雪が降っていて、友人の一人が手袋をした手で受けると、(図1)の雑誌の表紙に載っているような樹枝状の結晶でした。肉眼ではっきりと枝が識別できるほどの大きさで、すべての枝が白く輝いていたのを覚えています。
 (図1)の表紙の雑誌の雪の結晶は顕微鏡写真です。この雑誌には雪の結晶の実験室内での発生や、数値計算による雪の結晶の発生についての科学的な解説が載っています。雪の結晶の顕微鏡写真の撮影に成功したのはベルリンの医師ノイハウス(R.Neuhauss)で、その写真を1893年に世に出しています。同じ頃、北アメリカの農村に住んでいた農夫のベントレイ(W.A.Bentley、1865~1931)が数多くの雪の結晶の写真を撮っていました。それが「雪の結晶(Snow Crystals)」という写真集(1931)になっています。この写真集には窓の霜やクモの巣に着いた露の写真も載っています。


(図1)雪の単結晶

(図2)雪の結晶の写真集

 (図2)は1962年に再出版されたものですが、私がこの写真集を初めて見たのは学生の頃、日本橋の丸善書店でした。7千数百円の価格は学生の身分では高価で、そのときに買うことはできませんでした。この写真集に載っている写真は、個々の雪の結晶の写真がベントレーの手によって切り取られたものなので、科学的写真ではないという意見があったことも事実ですが、多くの人々や研究者が言っているように、雪の結晶の美しさを充分に伝えています。
 雪の結晶の研究で世界的に有名な日本人がいます。世界で初めて雪の結晶を実験室で作った北海道大学の中谷宇吉郎博士です。(図1)の雑誌の記事もそうですが、海外の雪の結晶について書かれた本を見ると、必ずといっていいほど中谷宇吉郎博士の名前が出ています。中谷博士はベントレーの写真集を見て雪の結晶の美しさに魅せられ自ら写真を撮り、ついに実験室で雪の結晶を作ることに成功しました。実験室の中では温度や湿度を変化させることができるので、その違いにより雪の結晶の形が違うことがわかりました。その結果により、温度と湿度から雪の結晶の形がわかる「中谷ダイヤグラム」を作りました。
 中谷博士は随筆家としても有名です。「雪は天から送られた手紙である」という言葉を聴いたこと、読んだことがあると思いますが、中谷博士が書いた随筆に由来するものです。

・・・、天然に見られる雪の全種類を作ることが出来れば、その実験室内の測定値から、今度は逆にその形の雪が降ったときの上層の気象の状態を類推することが出来るはずである。 このように見れば雪の結晶は、天から送られた手紙であるということが出来る。

この文章は、昭和13年に岩波新書の創刊時の一冊として刊行された「雪」に載っています。
 日本人には雪の結晶でもう一人有名な人がいます。話は江戸時代に遡ります。「雪花圖説(せっかずせつ)」(天保3年:1833)と「續雪華圖説」(天保11年:1840)を世に送り出した、関東下総国古河(現在の茨城県古河市)の城主、土居利位(どい・としかつ、1789~1848)です。土井利位は天保8年(1837)に大塩平八郎の乱を治めました。


(図3)古河市歴史博物館図録

「雪華圖説」は利位が古河で顕微鏡(今よりは簡単な物)を使って観察した雪の結晶を書き写したもので、「續雪華圖説」は大阪や京都で観察した時のものです。(図3)にその一部が載っていて、顕微鏡写真と比べると、雪華模様ともいえますが、雪の結晶が六角形であるという特徴を捉えています。利位は蘭学を学んでいたので、同書には自然現象に対する科学的な解説もあり、上昇気流により雲が発生することも書かれています。 当時の書物は木版ですから両書はたくさん出版されませんでした。また、それに載っている雪の結晶は細密画ではありませんが模様として美しいもので、利位自身も印籠や硯箱などの身の回りの物(図3)に使用していました。雪華の図柄は当時の人々にもてはやされ着物の柄にもなり、浮世絵にも描かれました。
雪の結晶の図柄は今でもいろいろと使われていますね。古河市では6・3制により昭和22年に開校した古河中学校(現古河市立古河第一中学校)の校章が土井利位の図説から取ったものです。今でも旧古河市の小中学校では多くの学校が雪華の模様を校章としています。
古河市を訪れると雪華は町のシンボル的存在で、あちこちで雪華を眼にします。(写真1)は町の繁華街の街路灯です。古河市歴史博物館の隣にある古河文学館の2Fのレストランの看板(?)の装飾にも雪華が描かれていました(写真2)。古河第一小学校を取り巻く歩道の敷石(写真3)もそうですし、その学校の生垣にも雪華の模様(写真4)が使われていました。ちなみに、古河市歴史博物館には土居利位に関係したものが所蔵されています。土井家の墓所がある正定寺にも利位の描いた雪華の図集があり、(写真5)のように本堂の窓ガラスも雪華のような模様がありました。本堂内部にも雪華模様があしらった物がありました。


(写真1)街路灯の上にある雪華模様

(写真2)レストランの看板

(写真3)古河第一小学校周辺の敷石の雪華模様

(写真4)古河第一小学校生垣の雪華模様

(写真5)正定寺の本堂

No.85

2008.2 Categories

鴨の冶部煮

 今年(2008年)の節分は2月3日で4日は立春です。(図1)は東京、京都、金沢の冬(12月~2月)の日平均気温の平年値のグラフですが、1月末から2月初めが最も気温が低い時期であることがわかります。冬の寒い日には、温かい食べ物が何よりのご馳走です。とろみの付いた物はなかなか冷めなくて、寒い日には特においしいです。


(図1)日平均気温の日別平年値(12月~2月)

 子供の頃、祖母が湯飲み茶碗に片栗粉と砂糖を入れてお湯を入れて練った、葛湯をおやつに作ってくれました。薄甘でちょっぴり酸味のようなものあり、熱いのをフーフーと冷ましながら食べるのが好きでした。

 “きつねうどん”は煮付けた大きな油揚げをのせたうどんですが、“たぬきうどん”は、東京と京都では違っています。東京で“たぬきうどん”を注文すると、揚げ玉(関西では天かす)をのせた物が出てきますが、京都では違ったものが出てきます。“きつねうどん”と同じように少し甘く炊いた油揚げを刻んだものと細く斜めに刻んだネギの載ったうどんに、うどんつゆの味がする葛餡のかけ、おろし生姜が載ったものが出てきます。ただし、ほとんどの店が冬の間だけのようです。私がその“たぬきうどん”を初めて見たのは京阪三条駅の近くの食堂で、土地のご婦人が注文していました。もちろん冬です。「わっ、おいしそう!」と思い、別の機会に注文したことがあります。生姜味がさわやかで、体が温まりました。

 加賀地方にはとろみの付いた汁物に鴨の冶部煮があります。能登半島で生活しているときに食べましたが、身も心も温まりとてもおいしかったです。妻が友人から作りかたを教えてもらい、冬になると夕食に出ることがあります。各家庭でいろいろな作り方がありますが、我が家の場合は次のようにしています。

 たっぷりの鰹節でだしをとり、醤油と砂糖で味付けしたすまし汁に、一口大に切ったサトイモ、人参、たけのこ、しいたけ、生のすだれ麩と小麦粉をまぶした鶏肉入れて煮ます。これを椀に入れて絹さやを飾ります。食べるときは、山葵を溶いて食べます。金沢市内の飲食店では鴨を使うのでしょうが、家庭では鶏肉で充分です。白身魚でもいいようです。肉にまぶした小麦粉が溶けて汁にとろみが付きます。

 釜石時代の友人が金沢を訪れたときに兼六園などを案内し、昼食に入って飲食店で食べてもらったところ、珍しがられ評判が良かったです。能登での生活が終わり、関東に住んでいる親戚が集まったときにも出しましたが、やはり評判が良かったです。

No.73

2007.2 Categories

レイク・エフェクトの雪

 あるところに大きな湖がありました。冬の寒い日、寒冷前線が通過したけれど大きな湖がある地域は大雪になりませんでした。しかし、寒冷前線の通過後、北ないし西よりの風が強くなりました。風は大陸の奥地の北の方から流れてきた空気なので、とても冷たくて乾いていました。やがてその空気は大きな湖の上を流れ始めました。冬なので湖の水は冷たかったのですが、空気よりも温度が高かったので湖から蒸発が起こり、霧が発生しました。空気は湖水で温められたので上昇気流も起こり、霧は雲になり湖の上を流されていきました。蒸発はまだまだ続きます。湖から水蒸気の補給された雲は流されながら高さを増し、やがて雪が降り始めました(図1)。雲の背の高さは3,000mにもなって、対岸に上陸して強い雪を降らせました。雪は数日続くこともあり、1時間で30cmも積もったり、1日で70cm以上積もることもありました。


(図1)湖の影響で降る雪

 これはどこのことだと思いますか。アメリカの話です。北アメリカ大陸のカナダとアメリカの国境に五大湖がありますね。そう、ナイアガラ滝があるところです。


(図2)湖の影響で雪が降る地域

 冬、ここに大陸の北西方向から冷たく乾燥した空気が流れ込んできます。すると、空気よりも温度が高い湖から蒸発が起こり、下層は湖で温められるので上空との温度差が大きくなって不安定となり、雲が発達して雪を降らせます。この雲が上陸すると、低気圧や前線がなくても、(図2)の青く塗られた湖の東側では強い雪が降ります。これがレイク・エフェクトの雪(Lake-Effect Snow)と言われるもので、雪が降りやすい季節は11月から翌年の1月の間です。
 (図1)をもう一度見てください。湖が日本海に変わり、風下側に高い山があれば、日本と同じですね。冬、日本海側で降る雪もこれと原理は同じです。しかし、日本列島沿いには暖流の対馬海流が流れているので、その上を空気が流れると下層と上層の温度差が大きくなります。また、山で上昇気流が強められます。このため、大気の安定度が悪くなります。雲の背の高さは5,000mに達することもあり、雷が鳴ったり、海上では竜巻が発生することもあります。レイク・エフェクトの雪について書かれたものを幾つか調べて見ましたが、雪が降るときに雷が鳴ったり、竜巻が起こるというようなことは書いてありませんでした。アメリカの中央平原のトルネード(竜巻)は有名ですが、発生が多いのは春です。ちなみに、日本海側の雷の発生は、夏よりも冬の方が多くなっています。
 レイク・エフェクトの雪や日本海側の雪ほど強いものではありませんが、冬型の気圧配置で、西よりの風が吹きやすいとき、大阪市街地で雪が降っても、大阪府北部の枚方(ひらかた)市や京都市では雪が降らないことがあります。これは瀬戸内海の上を流れた乾燥した冷たい空気が、瀬戸内海から水蒸気と熱の補給を受けて雲が発生し、大阪市街地に雪を降らせます。しかし、枚方市や京都市には、陸地の上を通った空気が流れ込みます。陸上を流れた空気は水蒸気の補給を受けられないので、雪が降りません。

No.60

2006.1 Categories

冬の突風

 2005年12月25日の夜、トリノオリンピックの日本代表選考がかかった、女子フィギュアスケートフリーの演技の番組を見ている最中に、テロップで「午後7時15分頃、山形県庄内町余目付近の羽越線で特急が脱線転覆して、けが人が出ているもよう」と出ました。この番組が終わってからNHKに変えると、すでに現場からの中継で、風がえらく強いようでした。現場中継のアナウンサーだと思いましたが「運転手が、『鉄橋を渡ってから進行方向右側から雪を伴った強い風を受けた』と言っている。」というのを聞いたのかもしれません。すぐに気象庁のホームページのレーダー画面を見ました。事故発生前後の画像を見たところ、事故が発生した頃強い降水域(降水とは雨や雪のことを言います)が通過していました。防災情報センターのレーダー画像ならば、もう少し詳細な画像が見られるのでそれも見ました。


(図1)2005年12月25日18時50分から19時30分のレーダー画像
(気象庁提供のデータを使用)

(図1)は事故が発生した19時14分前後のレーダー画像です。図は出していませんが、気象庁も防災情報センターのレーダー画像も10分間隔です。
色が黄色や赤になっている所がありますが、降水強度がとても強い事を意味しています。赤の点線で囲みましたが、強い降水強度のもの(エコー)が19時10分から19時20分の間に事故現場付近を通過しています。この強いエコーはほぼ東西に伸びて(線状)います。降水強度が強くそれが連なっていることは、背の高い(発達した)積乱雲列である事を意味しています。また、このエコーは日本海からやって来て、この時刻に、この場所で最も降水の強さが強くなっています。しかし、19時30分には赤いところ小さくなり、黄色いところがほとんどの固まりとなっていて、積乱雲が弱まっていることを意味しています。発達した積乱雲や発達した積乱雲列からとても強い風が吹出すことがあります。航空機が離着陸時にこれに遭うと墜落し大惨事となりますね。その後の新聞記事などによると、現場付近では強い風による被害が出たと報道されています。
 (図2)は12月25日の18時と21時の天気図です。北海道のすぐ西の発達中の低気圧があって、中心から延びる寒冷前線が本州の日本海沿いに延びています。東北地方は等圧線の間隔が狭く、強い風が吹いていることが分かります。寒冷前線は積乱雲を伴いますが、事故が発生した時刻には寒冷前線は山形県を通過していません。今回の強いエコーは、寒冷前線の東側(専門的には、低気圧の暖域と言います)にあります。


(図2)2005年12月25日の地上天気図(速報値)
左:18時  右:21時

 発達した低気圧の暖域で発達した積乱雲列が発生することはよくあります。かなり昔になりますが、昭和53年2月28日に東京の中野と千葉県の西船橋を結ぶ地下鉄東西線の荒川鉄橋で、強い風により電車が脱線転覆したことがありました。このときの強い風も、寒冷前線の通過前で、低気圧の暖域で発生したものでした。
 しかし、積乱雲がこの場所で発達し、このような強い風をもたらし、しかもそこを特急が通過したというのは、偶然の一致としか言いようがありません。なぜこの場所で積乱雲が発達し、強い風をもたらしたかは、今後の調査により解明されるものと思います。
 最後になりましたが、事故に遭われた方々にお見舞いをお見舞い申し上げるとともに、不幸にして亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。事故処理をなされている方々、本当にご苦労様です。

No.20

2003.1 Categories

寒鱈の思い出

 各地の気温の月平均値をみると、1月と2月が最も低くなっています。北国では、空から降ってくる物は白い物、雪がほとんどです。ところで、雪に関係した魚があるのはご存じですね。「タラ」です。魚へんに雪と書いて「タラ」と読みますが、まさに雪の降る頃、真冬が鱈のもっとも美味しい時期です。この魚は、「たらふく食べる」という言葉にも使われるくらい大食いで、腹を開けると胃袋の中に消化しきれていない魚が入っていることもあるそうです。
1月、2月には釜石(岩手県)の魚屋にはでっぷりと腹の膨れた鱈がたくさん並びます。子供の頃食べた鱈というと、湯豆腐に入っている切り身の塩鱈だけでしたから、初めて鱈の刺身を食べたときの旨かったこと!!
独身時代の一部を釜石で過ごし、初めて自炊生活を経験しました。とにかく魚が新鮮で美味しいので魚屋にはよく通いました。最初のうちは買いに行くたびに魚の名前を聞き、味からも魚の名前を覚えました。おかげで、店の人ともすっかり顔なじみとなりました。店に並ぶ全ての魚を食べようと思ったのですが、とうとう買えなかった物が2つあります。ヒラメと、蟹(毛蟹)です。それを買おうとしたら、「高いよ、高いよ」と言うので、とうとう買わずじまいでした。
しかし鰹や鱈のような大型の魚を半身、あるいは一匹買うときは、一回に払う金額が大きくても買わせてくれました。鱈の刺身が食べたくなると半身を買い、刺身を1人前作ってもらい、残りは切り身にしてもらっていました。釜石市内には清酒工場があり、柔らかい酒粕が手にはいるので、切り身は粕漬けにして後から楽しみます。
ところがある時、鱈を一匹まるまる買ってしまったことがあります。もちろん、刺身一人前と、残りは切り身にしてもらいました。しかし、魚屋さんからは鱈のアラも渡されてしまいました。アラはどう料理してよいかわからないので、アパートの部屋を借りていた大家さんに渡したところ、アラ汁を作って持って来てくれました。「味噌仕立ての田舎風だよ」と言われましたが、大根、人参、長ネギ、豆腐などが入っていて、とても美味しかったです。もともと魚のアラ汁は好きでしたが、鱈は刺身よ
りこのアラ汁の方が旨かったのを覚えています。
釜石など三陸沿岸で雪が降る気圧配置には2つのタイプがあります。一つは、東京などで雪が降る時と同じで、太平洋側を低気圧が発達しながら通過するときです(図1)。一方、大陸に強い高気圧が現れ、オホーツク海や千島列島で低気圧が発達したときを西高東低の気圧配置、あるいは冬型の気圧配置といいます(図2)。冬型の気圧配置は何日も続くことが多いですが、この間、寒気の塊が次々と通ります。この寒気の塊の通過により、三陸でも雪が降り、雪が降る前は、ゾクゾクとするような寒さを感じます。その後は強い西よりの風が吹きます。


(図1)太平洋側を低気圧が発達しながら
通過するときの気圧配置
2003年1月24日午前9時

(図2)西高東低の気圧配置
2003年1月29日午前9時

こんな日の夜、鱈のアラ汁は魚のだしが利いて、色々な野菜が入って栄養バランスもとれ、体が温まるし、最高のご馳走でした。

No.18

2002.12 Categories

腹に響いた除夜の鐘

 大阪に転勤した最初の年です。両親が、関西で年末年始を過ごしたいとやってきました。年末は、大阪の黒門市場と京都の錦市場に正月用品の買い物に行きました。どちらの店にも正月用品が並べられ、買い物客でごった返していました。特に錦市場は、身動きができないぐらいの人です。 大晦日の年が変わる頃、各地の除夜の鐘を撞く様子が放送されますが、その中で知恩院(京都府)の鐘を撞く場面は印象的でした。この日本一の大鐘を撞くときの様子は、いろいろな写真にも紹介されていますが、大勢の若い僧が棒に付けられた縄を引き、親綱を持つ僧が体を投げ出すようにして撞いています。これを実際に見たかったし、両親にも見せたかったので、大晦日の夜は京阪四条駅から歩いて、八坂神社(八坂さん)から円山公園の下を通って知恩院へと向かいました。人の多いこと・・・


(写真1)知恩院本堂
この建物の右上に日本一の「鐘」がある。大晦日は
人で埋めつくされ身動きができない。

(写真2)日本一のつり鐘

八坂さんからはおけら参りの人が縄におけらからの火を付けて、くるくる回して出てきます。これも、テレビで見ていたので、印象的な光景でした。八坂さんから知恩院へ向かう道も大勢の人でぎゅうぎゅうでした。
ようやく知恩院の本堂の前にある大きな広場(写真1)に着きましたが、すっかり人で埋め尽くされていて身動きが取れず、とうとう大鐘(写真2)の近くに行けませんでした。鐘のそばに行くのは諦め、本堂の前の広場で鐘の音を聞いていました。 お寺の鐘の音というと、「ゴ~ン」という表現になりますが、この鐘の音は違います。「ズ~ン」という響きで、その響きを耳だけでなく腹で聞いたというような雰囲気でした。この響きは文字では表せません。
帰りは、三門の方へ向かいました。知恩院の本堂は丘の上にあるので、大きな三門から入ると、その後ろには一段の落差が大きい急な石段があります。しかし、真っ暗な中、足を滑らせたら危険だからでしょう、そこは通行止めとなっていたので、脇にある緩やかな石段を下りて帰りました。大勢の人の中を歩いている間、寒さを感じませんでしたが、さすがに冬の夜、家に帰り着いたときは体が冷えきっていました。
関西では年末になると、奈良の大仏のお見拭いをはじめ、有名な神社仏閣の大掃除の様子が放送されます。そのなかには、知恩院の大鐘の試し撞きの様子もあります。この大鐘を撞くには、撞き手の息が揃わないとうまくいかず、転がってしまう僧の様子も写されます。一度行って、本番を見ることは大変なのがわかったので、試し撞きの時に行こうと思っていましたが、とうとうそのチャンスはありませんでした。

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