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お天気豆知識

その他の記事一覧

No.32

2003.9 Categoriesその他

河童の川流れ

 暑い時は水辺で遊ぶ機会が多くなるため、どうしても水による事故が多くなりますね。ときには死亡事故のニュースのながれることもあります。
私は子供の頃、世田谷区祖師谷に住んでいました。坂を下っていくと仙川が流れていて周りには田や畑が広がっており、よく遊びまわっていました。雑木林もあちこちにあり、虫取りに行きましたし、秋には栗やドングリを採りに行っていました。まさに里山の風景です。
小学校時代、台風が来ると休校となりました。秋の台風は、嵐がおさまると雑木林に行って落ちた栗を採るのが楽しみでした。しかし、仙川は台風の大雨であふれることもありました。幸い我が家は仙川の流れている谷間ではなかったので、水に浸かることはありませんでしたが、小田急線の鉄橋の近くの低いところには住宅があり、そこに住んでいた友人の家は床上浸水となり、「宿題が流された。」と言っていたのを覚えています。
どの台風による大雨か覚えていませんが、「仙川があふれている」というので坂を下り川がどうなっているか見に行きました。いつも遊び回っていた田んぼや反対側の坂へ向かう道路や橋も水につかり、泥水が勢いよく流れていました。何故か私は、あふれた川が勢いよく流れているのを見てどこまで行けるか試したくなり、流れに入って歩き出しました。
もちろん道路はどこにあるか十分知っていて、危なくなったら引き返せばいいと思っていました。幸いなことにすぐ傍の畑で農作業をしていた農家の人(男性)が、流れの中を歩いていく私を見つけ、すごい勢いで「コラ!何しているんだ!」と怒鳴ったので、あわてて引き返しました。もしそこに誰もいなくてそのまま歩き続けていたら、きっと流されて死んでいたでしょう。
でもこのおかげで、「増水した川は怖い」というのが印象づけられたようです。そのためでしょう、中学1年の夏休みに家族で丹沢の玄倉川の上流に川遊びに行ったとき、看板に「放流するときにはサイレンを鳴らすので、その後川は増水します。」というようなことが書いてあったのを見て、いつサイレンが鳴るのかなと気にしながら遊んでいたのを覚えています。


(写真1) 増水した宇治川
石塔の建っているところが塔の島
(1995年7月23日撮影)
<拡大画像>

(写真1)は宇治川で、平等院の前にある「塔の島」を上流から写しました。「塔の島」は島といっても中州です。鎌倉時代に作られたという石塔もあり、夏には鵜飼が行われ観光名所となっています。写真1を見ると塔の島の一部が水に浸かっており、宇治川の水量が多いことが分かるでしょう。もちろん「塔の島」は数日間立ち入り禁止となっていましたし、鵜飼もおこなわれていません。
数日前に台風が梅雨前線を刺激したことにより降った大雨で琵琶湖の水位が高くなり、これを下げるために、琵琶湖の出口にある瀬田川洗堰では全開放流をしていたので宇治川の流量が多くなっています。川の流れは「一秒間に何トン」と表現します。このときは多分、数百トン(500トン/秒以上)流れていました。
このような流れの中に落ちたら、どんな泳ぎの達人でも助からないでしょう。どうか皆さん、増水した川に入ったり近づいたりしないで下さい。川は上流で降った雨でも増水します。

No.26

2003.5 Categoriesその他

日本最初の天気予報

 休日にこそなっていませんが、世の中には様々な記念日があります。例えば「鮭」の作りの部分から11月11日は鮭の日です。6月は子供の頃から10日が「ときの記念日」として覚えていました。ところで6月1日は何の記念日だか知っていますか。気象記念日です。

気象記念日は、1875年(明治8年)6月1日に明治政府の手により東京気象台として東京で1日3回の気象と地震の観測が開始されたことから、1942年(昭和17年)に制定されました。場所は内務省地理寮構内、現在の東京都港区虎ノ門にあるホテルオークラのあたりです。ちなみに、わが国最初の気象観測所は北海道函館に気候測量所(函館海洋気象台の前身)が1872年(明治5年)8月26日に開設されています。
ところで、日本で最初の天気予報は、E.クニッピングにより1884年(明治17年)6月1日に毎日3回全国の天気予報が発表されています。その天気予報(日本で初めての天気予報)は次のようなものです。

●午前6時
 全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ
 (Variable winds, Changeable, some rain.)
●午後2時
 変リ易キ天気ニシテ風位定ラス 且雨降ル地方モアルベシ
 (Changeable; variable winds, local rain.)
●午後9時
 中部及ビ西部ハ晴或ハ好天気ナルベシ 北部ノ一部ハ天気定ラス 一部ハ曇天又ハ烟霧ナルベシ
 (Fair to fine in central Japan and the W, partly unsettled, cloudy or hazy in the N.)

E.クニッピング(Erwin Rudolf Theobald Knipping)はプロシア(現在のドイツ)の航海士で、開成学校(現在の東京大学)の教師として来日しました。その後船長や船員を教育する機関に移りましたが、在任中に来襲した3個の台風ついて、船舶から収集した気象報告や、地方測候所や灯台の気象資料をもとに調査をし、日本でも電信を利用した暴風警報の開始を促進する建白書を明治政府に提出しています。それまでに暴風警報発表に対する建白書は何回か出されていましたが、この建白書は受け入れられクニッピングは1882年(明治15年)から気象台に入ることとなりました。
気象台に入ったクニッピングは気圧の測定単位を「インチ」から「ミリメートル」に変えるように提案し、その後、気圧の単位は「mmHg」が使用されています。さらに全国一斉の定時観測も実施しています。このころは日本に標準時はなく、測候所があった京都の時刻が気象観測の標準時として使用されました。
また地方測候所からデータを電信を使って収集するため、気象電報コードも作製しています。気象電報の収集が開始されたのは1883年(明治16年)2月16日午前6時からで、同じ年の3月1日から東京気象台で初めて天気図を作製し、毎日印刷配布が開始されました。当時の印刷技術は石版印刷で、クニッピングが解析した天気図を元に、2名の画伯により版下が描かれています。
彼の目的であった暴風警報はやはり同じ年の5月26日に発表されており、これが日本で初めての暴風警報です。このときの気象状況は、全国的に気温が急昇して気圧は下降し、四国南岸に中心を持つ745mmHg(993hPa)の低気圧によって、四国、九州方面は風が強く、高知の24時間雨量は102mmとなっています。
天気予報の話に戻りますが、クニッピングは毎日の天気予報を発表することまでは考えていませんでした。「天気図で全般的な天気状況を知ってその変化がわかれば、今後天気がどう変化するかわかるはずだ。その結果緊急事態が予想されると警報が発表されるものだろう。となると、警報も天気予報の一部にすぎないのではないか。」というのが外部からの見方でした。クニッピングもこの考えに押され、1884年(明治17年)5月10日にようやく承認された1日3回の気象電報の開始を待って、天気予報の発表を決意しました。

現在は、ゾンデを使った高層観測、気象衛星、レーダーなど、全世界のデータを利用してコンピューターで計算された結果から天気予報が出されています。しかし、当時は気象観測といっても、地上観測だけですからデータ量や気象に対する知識や予報技術に格段の差があることは確かです。明治の人の勇気と災害を防ぎたいという熱意には頭が下がります。

No.14

2002.11 Categoriesその他

歴史をも動かす天気

  毎日の生活で、天気が悪かったために予定どおり物事が進まなかったことは多々あると思います。例えば、旅行先で雨に降られ、すばらしい景色がよく見えなかったとか、傘を持たずに出かけたため、雨に降られて濡れてしまい風邪を引いてしまったとか、また子供の頃ならば、雨で楽しみにしていた運動会や遠足が中止になったことがあるかと思います。
今回は、一国の運命までもが気象現象により左右されたようなことをいくつか紹介します。

元寇来襲

元寇来襲と天気の関係は日本では有名な話ですね。モンゴル帝国5代皇帝フビライは中国の南宋や朝鮮の高麗をおさえた後、日本を支配下におこうとして、1274年(文久11年)10月と1281年(弘安4年)7月の2度、日本に来襲しています。鎌倉幕府の執権であった北条時宗は、九州方面に所領を持つ御家人により迎え撃っています。
戦法や軍備の違い、兵員の数などで日本側は劣勢でしたが、どちらも嵐や暴風雨により元軍は退却しています。日本に幸いした暴風なので、「神風」という言葉ができました。しかし、後世には悲しいことに使われました。第2次世界大戦では航空機に爆弾を積んで敵艦に体当たりをするという「神風特攻隊」が編成され、多くの若い命が散っています。

無敵艦隊の敗北

16世紀後半のことです。スペインはフェリペ2世、イングランドはエリザベス1世のときです。イングランドとスペインは根深い対抗関係が続いていました。16世紀前半にスペインが完全な制海権を持っていたカリブ海域にイングランド船が出没するようになり、スペインによるカリブ海支配が危うくなり始めていました。スペインは27,000名の兵員を載せた130隻の艦隊でイングランドの攻撃に向かいました。
しかし、嵐が5日間続き、スペイン艦隊はスコットランドの岩礁地帯で壊滅的な被害を受けました。その後スペイン艦隊はイングランド艦隊により撃破され、イングランドが海外貿易などで栄え、大英帝国と呼ばれるようになりました。

ワーテルローの戦い

ワーテルローの戦いは、一連のナポレオン戦争での最後の戦争です。この戦いは、1815年6月15日から18日の間に、現在のベルギーの首都ブリュッセルの南東にあるワーテルローで行われました。始めイギリス・オランダの連合軍がフランス軍を迎え撃っていました。17日午後からこの付近では雷雨が発生し、雨は18日まで続き、地面は沼のようになってしまいました。このため、フランス軍の侵攻速度は遅くなり、そこにプロイセン軍が攻撃を開始したため、フランス軍は敗退しました。この戦いでナポレオンが率いるフランス軍は敗北し、フランスによるヨーロッパ支配が終わり、ヨーロッパにおける新しい政治的・軍事的な勢力関係が確定しました。
地面が沼のようになったということですから、激しい雨が降り、雨量も多かったと思います。上空に強い寒気を持った、かなりの規模の低気圧が来て、そこに向かって暖かく湿った空気が流れ込んだため、発達した積乱雲が発生し、雷を伴った激しい雨が降ったと考えられます。

古代ギリシア哲学

イオニアのミレトスで生まれた古代ギリシアの哲学者タレス(Thales)はギリシア哲学の祖といわれ、ギリシアの七賢人の一人に数えられています。また、タレスは気象の知識を実際に応用した人物です。

タレスは天気の変化傾向を注意深く観察し、ある夏のオリーブの実の作柄を予想し、周辺農園のオリーブの実を買い占めました。タレスの予想は当たり、莫大な富を得ました。おかげで、タレスはその後の人生をすべて哲学に専心したそうです。
凡人である筆者は、儲けたお金は遊行費に使ったり、生活費に当てたりですが、志を高く持った人は違います。

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