風を歩く
No.15
2006.01.02
吉野正敏
日中風談義
謹賀新年
正月ののどかな話題の一つとして、日本語と中国語の風にまつわる話を書いておきたい。
去る12月上旬、北京を訪れたとき、中国で広く日本語の学習に最近使われている“「日漢双解」学習詞典”を一冊寄贈された。この辞典は日本の大学で文学博士の学位を取得した劉永誌さんが責任編集者になって出来上がったものである。ページをパラパラとめくっていると、いろいろ、おもしろいことに気がついた。特に“風”の捉え方に日中間で違いがある点である。そこで、この「日漢双解」は学生用の小辞典だから、諸橋轍次「大漢和辞典」その他の詳しい辞典も参考にして、言葉としての“風”を少し書いておきたい。使用法は幾つかに分類される。 諸橋の大辞典では25に分類されているが、ここでは簡略化し、以下の通り、順序不同で述べたい。
1) | 日本語の“風(かぜ)”は、病気の“風邪(かぜ)”の項目しかない。“風(ふう)”が項目として主たる位置である。 |
2) | “ふう”の使用例の第一は自然現象としての風で、風雨・風向・風力・台風・風船・風鈴などがその例である。このエッセイの読者が最もよく使用する場合である。 |
3) | “ならわし、しきたり”で、日本語では学風・家風・風紀・風習などで、中国語でも同じである。日本では続日本紀天平宝字(757年)にその使用例があると言うから古い。 |
4) | “ようす、すがた、おもむき、など”で、中国語では様式、様子、態度、などがその例である。日本語で風の文字を使うが、中国語では風の文字を使わないところが特色と見てよいのではなかろうか。逆に日本での使用例は少ないが、中国では風の文字を使う場合がある。この例として、“風度”の語がある。日本には、温度・湿度と言う語はあるが、風度と言う用法、言葉は昨今ほとんど使用しない。この点からも、この第四の場合は日中間で差がある。 |
5) | “おしえる、なびかせる”で、中国語では“教海、使屈従、使依従、誘惑”の例が書いてあるが、風の文字を使う例がない。日本語でも、「兄貴風(あにきかぜ)を吹かす」などの日常語しかないのかも知れない。 |
6) | “ほのめかす”で、中国語にはない。 |
7) | “うわさ”、日本語・中国語とも、“風聞”で、一対一に対応している。 |
8) | その上にくる言葉の特色・特徴をよく表わす場合で、日本語の例えば、商人風、万葉風は、中国語で商人模様、万葉集的風格と書く。 |
つまるところ、上記の第4の場合がもっとも面白い。例えば、日本語の“風格(ふうかく)”は中国語でも“風格”だが、日本語では最近ほとんど使用されない“風度”という中国語がある点などである。
中国語の辞典をひくと、風度(fengdu)とは風格・人柄・気品・マナーとある。また、気度(qidu)という語も中国語にあり、風度とほぼ同じ意味であるが、多少、意気込みのような積極性が加わるようである。中国では後漢書にすでに出てくると言われるから、2千年の歴史があるのに比較して、日本では、最初の文献は11世紀と言われる。
中国南部、広東省の広州市のほぼ北方200kmにある関(Shaoquan, シャオクァン)市は、南北に伸びる中洲(なかす)の形をしている。ここを南北に走る西堤路と東堤路の中間で、中洲のほぼ中央に風度路がある。風度北路、風度中路、風度南路の3部分にわかれている。筆者はこの“風度路”を「気候地名集成」(2001)という本のなかで、“風度”を“風の度合い”と自然科学的にとらえ、気候地名の代表的なものとした。しかし、中国語の“風度”を日本語の“風格”と考えるならば、人間のある姿の表現であって、“風度路”の“風度”は必ずしも自然環境としての“風の度合い”ではないかも知れないと思うようになった。もっとよく現地で調べる必要があろう。
最後におもしろい語を一つ、“風馬牛(ふうばぎゅう)”である。ある辞典によると“風”とは、「さかりがついて雌雄が呼び合うの意」とある。「互いに慕いあってはるか遠方にまで逸走する牛馬の雌雄でさえも会うことが出来ないほど、両地が遠くはなれていること」転じて、「慕い合うもの同士が、双方の土地が遠く隔たっていて会えないことのたとえ」とある。さらに転じて、「自分とは何の関係もないこと、互いに無関係なこと、または、そのような態度をとること」と説明にある。中国語の辞典では「不相及、互不相干」と説明してある。昨今の日本では、都会生活者の生き方・態度は、“風馬牛”そのものである。
ところが一方、蒙古や内蒙古の草原では寒波の来襲で、馬や牛や羊などの家畜が酷い低温の風に吹かれ、雪に覆われた草原で最近では何万頭の単位で凍死する。自然環境としての風と、無縁などとは言えない。風が生存の限界にかかわるのである。
さて、2006年はどういう風が吹くだろうか。