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風を歩く

No.7

2005.09.12

吉野正敏

風立ちぬ

 堀辰雄[1904-1954]の小説「風立ちぬ」は、あまりにも有名である。いまここで、この小説の文学論を展開するつもりはないが、世界の風を“みて歩く”筆者にとっては、この作品の背景をどうしても考えておきたい。演劇ならば主役やそれを取り巻く役柄の人びとがいて、それを舞台装置がひきたたせる。その舞台装置を私は詳しく考えてみたいのだ。

 まず、軽井澤だが、ここは関東から信州にはいった峠で、海抜は約1,000メートルである。今日は、新幹線でも高速道路でも東京からアッと言う間につくが、この小説が書かれたころは、横川ですべり止めの歯車がついた電気機関車が後先に連結されて、列車を軽井澤まで押し上げた。軽井澤でまた普通の機関車に取り替えた。横川の駅でも、軽井澤の駅でも20分くらい列車はとまっていたと思う。とにかく、乗客はホームへ降りて、そばを食べる時間が充分あった。動き出しても、文字どうり、ゴットン、ゴットンという感じであった。これは、東京という都会からの隔絶感を助長した。もともと、古くは追分、新しくは、軽井澤は中仙道の峠の集落ではあるが、点在する家々は別荘で避暑の目的で来ている人たちが住む。

 堀はそれまでは鎌倉が仕事場であったが、1937年に軽井澤の桜の沢にあった川端康成の別荘に移った。1938年34歳のとき「風立ちぬ」を完結し、4月に野田書房から刊行した。かなりフレッシュな感覚で軽井澤をとらえたと想像される。軽井澤の気温は前橋・高崎より6―7℃低い。そして、湿度も低いので乾いた感じが強い。夏の日、午後になると、碓氷川の谷をのぼってきた谷風(たにかぜ)が峠近くで霧を発生させ、時には一寸先も見えない霧に包まれるようになる。人間は周囲がよく見えることが大切である。いったん何も見えない世界に包まれて、それが晴れると、心理変化によい効果があるといわれている。シラカバやカラマツの葉が黄色に色付き始めると、秋は本番である。待ち焦がれた秋風が吹く。

    秋きぬと
    目にはさやかに
    見えねども
    風の音にぞ
    おどろかれぬる

 古今集にある藤原敏行のこの歌は、私が小学生のとき、六年生の教科書にのっていた。“目では夏から秋への推移はわからないが、耳では秋の気配を感じる”と言うのである。この歌は、秋の始まりの詩歌の原点となり、「立秋」・「秋立つ」・「秋来る」などの季語になったと歳時記には書いてある。

 秋の風は生理的に、また、健康の上から好ましい条件を備えていることが多い。“天高く馬肥ゆる秋”の季節である。近年、医療天気予報が日本や諸外国で発達してきた。まだ、生理的にはもちろん、統計的にも因果関係を結論付ける段階にきていない疾病が多いが、最近刊行された中国の医療天気予報の書物を見ても、秋には対象となる病気の数が目立って少ない。昔から、“秋には病人の顔色はよくなるが、医者の顔が(実入りが少なくなって)青くなる”と言われているが、これは本当のようだ。

(写真1)右から左に風は強く吹いて、 バルハン型砂丘は左へ移動中。 1993年9月4日チーラ西方にて。

(写真1)右から左に風は強く吹いて、 バルハン型砂丘は左へ移動中。 1993年9月4日チーラ西方にて。

(写真2)沙漠の植生。7‐8月の異常多雨の後。 1993年8月31日、和田とチーラの中間点にて。いずれも、吉野撮影©

(写真2)沙漠の植生。7‐8月の異常多雨の後。 1993年8月31日、和田とチーラの中間点にて。いずれも、吉野撮影©


 写真は中国北西部のタクラマカン沙漠の9月の景色である。(写真1)は砂の山が、風で画面の右から左に移動する。(写真2)は礫で覆われた沙漠。中国語ではゴビと言う。夏には沙漠といっても雨がふることがあるので、水が流れた痕が明瞭である。貧弱だが高さ20‐30cmの草が生えている。このような沙漠では日中、地表面が日射によって暖められ、上昇気流が発達する。これが旋風となって、小型の竜巻のようになり、地上数メートルから数十メートルの高さまで鉛直に立ちのぼる。ひどい時には数百メートルまで達すると言われる。これを塵旋風(ちりせんぷう、ダスト・ホィール、ダスト・デヴィル、dust-devil)と言う。この写真のようなところで、“風立ちぬ”などと言ったら、“スワ、大型の塵旋風の警報発令か”と間違われかねない。沙漠に住む人には軽井澤の人たちの舞台を想像できないであろう。きめ細かい情感は、別の表現しかありえないと思われる。

ポゥル ヴァレリィの詩

    Le vent se lève,
    il faut tenter de vivre

を、堀は、

    風立ちぬ、いざ生きめやも

と訳した。小説の題はここからきている。小説は序曲に次いで、春から物語が始まり、真夏、秋、冬と1年間の男女の療養生活の結末が主題である。特に冬の部には1935年10月20日から日付けがかかれており、1936年12月から1938年3月までの体験がベースと考えられる。肺結核は今日では‘死の病’ではないが、1930年代はほとんど治癒不可能な病であった。短期間の若妻にも、作者にも、冬はかならず秋に続いて来ることが判っていた。 「死のかげの谷」の表現が、風に託された。12月30日の最後が圧巻である。

静かな晩。。。。ヴェランダに立つ。。。。この谷と背中合わせとなっているかと思われるあたりで風がしきりとざわめいているのが遠くから聞こえてくる。。。。目の前は雪あかり。。。。向こうの谷はざわめいている。。。。こちらは静か。。。。小屋のすぐ裏では小さな音をきしませている遠くからやっととどいた風のために枯れきった木の枝と枝とがふれあっているのであろう、そんな“風の余り”らしいものが、私の足もとで二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら移している。。。。

「風立ちぬ」の結末である。日本人にはよくわかる情景で、風の動きに表現された作者の意図、舞台装置はきわめてするどい。


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