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お天気豆知識

お天気雑談の記事一覧

No.47

2004.12 Categoriesその他

日本にも時差がある?

 「日本にも時差がある」、馬鹿なことを言い出してなどと思わないで聞いてください、でなくて読んでください。
(図1)は今年(2004年)の12月5日午前9時(日本時間)の地上天気図です。


(図1)2004年12月5日午前9時(日本時間)の地上天気図

三陸沖に976hPaと台風並みに発達した低気圧があります。日本付近の等圧線の間隔が狭く、非常に強い風が吹いていることがわかります。この日北海道は大雪になりました。一方、首都圏では夏みたいに気温が高く、強い風で運転できない鉄道もあり交通機関のダイヤが乱れました。
 (図1)がなぜ5日9時の天気図であるかがわかるかというと、左上と右下の四角の中にその情報があります。そこの2行目に「050000UTC DEC.2004」と書いてありますが、これが日時の情報です。この真ん中付近に書いてある「UTC」は世界協定標準時を意味します。「DEC」はDecemberの略で12月、「2004」は2004年です。「050000UTC」は世界協定標準時で5日0時0分を意味します。世界協定標準時は、イギリスのロンドンにあるグリニッチ天文台の時刻が基準となっていて、イギリスと日本の時差は9時間あるため、この天気図の時刻は日本時間で5日午前9時となります。

 世界地図を見ると、ロンドンは経度の0線が通っています。ここを基準に東側が東経何度、西へ行けば西経何度となっています。皆さんもご存知のように、日本の標準時間は東経135度にある明石天文台です。イギリスとの時差が9時間で経度差が135度あるのですから、経度1度当たりの“時差”は 「9時間÷135度=4分」 となります。これだけで何のことかわからないと思いますが、日の出・日の入りの時刻を考えてください。地球は自転しているので、明石より東では日の出が早くなり、明石より西では日の入りが遅くなります。例えば、明石と東京との経度差は約4度ですから、日の出は明石よりも東京の方が約16分早くなります。「日本にも時差がある」というのは、主に日の出・日の入りの時刻を言いたかったのです。

 私は東京生まれですが大阪で生活をしたとき、日が長い夏至前後は16分の“時差”は感じませんでした。しかし、日が短い12月から1月末までは“時差”を強く感じました。特に1月上旬は朝7時には東京では太陽が顔を出していますが、大阪ではまだです。このため朝がとても暗く妙な感じでした。そのかわり大阪では日没が約16分遅いので、日が短い時期は東京よりも遅い時間まで明るく何か得をした気分でした。独身時代の一時期、釜石で自炊生活をしましたが、東京とほとんど同じ経度なので冬は午後5時過ぎには真っ暗で、時には雪も舞い、仕事を終えてから夕食の材料を買いに行くとき、わびしかったことが思い出されます。また、釜石に住んでいた頃、天草で半月ほど仕事をしたことがありました。朝が早い仕事のため、釜石よりも朝が暗く感じました。釜石は本州の東の端近くに位置しています。一方、天草は日本列島の西の端近くに位置しており、両地点間の経度さは約10度です。経度1度当たりの時差が約4分ですから、天草の日の出の時刻は釜石よりも40分ほど遅くなります。釜石の生活に慣れた私にとって、天草の朝が暗く感じたのは無理ないことでしょう。

No.42

2004.7 Categories

マンボウの刺身

 若い頃に、三陸の釜石に住んだことがあります。三陸の夏は関東よりも短く、釜石の8月の月平均最高気温は26.9℃で東京の30.8℃よりも4℃ほど低いですが、年によっては35℃を越える日もあります。そんなわけで夏には何かさっぱりしたものを食べたくなります。昼の定食を食べさせてくれるところで、マンボウの刺身を酢味噌で何回か食べたことがありました。癖の無いさっぱりとした味で、口当たりが良かったのを覚えています。釜石では「マンボザメ」と呼ばれており、好まれて食べられているようでした。


 皆さん、「マンボウ」という魚は知っていますよね。砲弾、ピストルの弾を横から見たような形をしています。尖った方の先っぽに口があり、そのすぐ近くに目があります。幅の広いほうにはヒレがついています。その生態はまだ良くわかっていないようです。子供の頃、図鑑にクラゲが餌だと書いてあったのを記憶していましたが、主な食べ物はクラゲだとか。そのせいでしょうか、マンボウの肉は白くて水っぽく、ブヨブヨして、白いコンニャクをもっと水っぽくしたような感じです。こんな肉ですから、料理をするときに包丁は使えず、切り分けるときには手で千切るそうです。

 三陸各地でマンボウを食べますがこれを専門とした漁をしているわけではなく、たまたま網に入ったときに魚屋で売られます。もちろん、あの白くブヨブヨした肉が店先に並びます。マンボウは大量に取れませんし、肉が柔らかいので地元で消費されてしまいます。釜石の市場に行くと、半分に割られて肉を取られ、硬い皮だけの哀れな姿を見たことがありました。
 マンボウを食用にするところは三陸以外にもあります。ジオグラフィック・ジャパンの2002年11月号の記事には、千葉県の鴨川付近で食用にしていると書いてありました。写真は、静岡県の焼津付近の漁港に定置網にかかったマンボウが水揚げされたものです。ほとんどが地元の漁師さんたちで食べられてしまい、たまに店で売られることもあるそうです。インターネットで調べてみると、そのほかの地域でも食用にしているところがありました。
 私がマンボウの刺身を食べることができたのは、独身の時だけでした。結婚してから魚屋(もちろん釜石)で売られていたマンボウを見つけ、「買おう」と女房に言いましたが、初めてその肉を見た女房には、“得体の知れないもの”と見えたようで、「ダメ!」とあっさり却下されてしまいました。

No.38

2004.3 Categories

はねず踊り

 毎年3月になると桜の開花予想が出され、下旬には何処で桜が咲いたかが話題となり、北日本はともかく梅の花の話題は少なくなります。しかし、京都山科には遅咲きの梅の花の咲くお寺があり、それにあわせて少女達により「はねず踊り」が境内でおこなわれます。そのお寺は、山科小野の真言宗善通寺派曼荼羅寺隋心院門跡で、通称「隋心院」と呼ばれています。「はねず」とは古い言葉で薄紅色を意味し、梅も同じ名前で呼ばれていました。特に山科小野の隋心院の紅梅は古くからこの名前で親しまれていました。


(写真1)隋心院の梅

 昔、深草少将がこの地に住んでいた小野小町を慕うあまり、百夜通いの悲願を込めて通い続けたにもかかわらず、九十九日目の大雪の夜についに代わりの人を仕立てたのが運のつきで、少将にはもはや小町の姿を求めることは出来なくなりました。その後も小町は、毎年「はねず」の咲く頃を老いの身も忘れたように里の子供たちと楽しい日々を過ごしたということです。「はねず踊り」は、隋心院に伝わる小野小町の伝説を主題にしたもので、いつから始まったかはさだかではありません。その後廃れましたが、古老の記憶を元に復活され、昭和48年から毎年3月下旬に地元の保存会により隋心院境内で行われています。

 「はねずおどり」と言う言葉が、何か春を迎える華やいだ気持ちを思わせ、筆者も枚方市に住んでいるときに見に行きました。当時はまだ京都市営地下鉄が山科方面に通じていなかったので、京阪電車で中書島から支線である宇治線に乗り換えて六地蔵まで行き、そこからバスで向かいました。 バスから降りるとまず梅園が目に入りました。梅園はよく手入れされており、八重の紅梅が咲き誇っていて(写真1)、中にはいると何とも言えず良い香りがしました。梅の花は、2月下旬から3月上旬にかけて咲く花よりも一回り大きく、色も濃いように感じました。


(写真2)はねず踊り

 「はねず踊り」の舞台は梅園のすぐそばに設けられていました。 踊り手は女子の小学生から高校生で、おしろいを塗り紅をさしていました。
左の写真(写真2)からわかるように、衣装も紅梅を思わせる紅色で、かぶった笠の上にも紅梅があしらわれており、いかにもこれから訪れる春の華やかさを思わせる彩りです。音曲はゆったりとしたテンポで、何とも言えずかわいいものでした。

  3月下旬といっても寒い日があります。筆者が訪れたのは1995年3月26日でした。天気は曇りから晴れに向かっていきましたが、京都地方気象台の観測によると、この日の最高気温は11.3℃で3月上旬の気温でした。当日もじっと座って見ているのには、薄手のコートを着ていても寒かったのを覚えています。見に行かれる方、天気の様子を見て寒さの対策も忘れないようにして下さい。

No.32

2003.9 Categoriesその他

河童の川流れ

 暑い時は水辺で遊ぶ機会が多くなるため、どうしても水による事故が多くなりますね。ときには死亡事故のニュースのながれることもあります。
私は子供の頃、世田谷区祖師谷に住んでいました。坂を下っていくと仙川が流れていて周りには田や畑が広がっており、よく遊びまわっていました。雑木林もあちこちにあり、虫取りに行きましたし、秋には栗やドングリを採りに行っていました。まさに里山の風景です。
小学校時代、台風が来ると休校となりました。秋の台風は、嵐がおさまると雑木林に行って落ちた栗を採るのが楽しみでした。しかし、仙川は台風の大雨であふれることもありました。幸い我が家は仙川の流れている谷間ではなかったので、水に浸かることはありませんでしたが、小田急線の鉄橋の近くの低いところには住宅があり、そこに住んでいた友人の家は床上浸水となり、「宿題が流された。」と言っていたのを覚えています。
どの台風による大雨か覚えていませんが、「仙川があふれている」というので坂を下り川がどうなっているか見に行きました。いつも遊び回っていた田んぼや反対側の坂へ向かう道路や橋も水につかり、泥水が勢いよく流れていました。何故か私は、あふれた川が勢いよく流れているのを見てどこまで行けるか試したくなり、流れに入って歩き出しました。
もちろん道路はどこにあるか十分知っていて、危なくなったら引き返せばいいと思っていました。幸いなことにすぐ傍の畑で農作業をしていた農家の人(男性)が、流れの中を歩いていく私を見つけ、すごい勢いで「コラ!何しているんだ!」と怒鳴ったので、あわてて引き返しました。もしそこに誰もいなくてそのまま歩き続けていたら、きっと流されて死んでいたでしょう。
でもこのおかげで、「増水した川は怖い」というのが印象づけられたようです。そのためでしょう、中学1年の夏休みに家族で丹沢の玄倉川の上流に川遊びに行ったとき、看板に「放流するときにはサイレンを鳴らすので、その後川は増水します。」というようなことが書いてあったのを見て、いつサイレンが鳴るのかなと気にしながら遊んでいたのを覚えています。


(写真1) 増水した宇治川
石塔の建っているところが塔の島
(1995年7月23日撮影)
<拡大画像>

(写真1)は宇治川で、平等院の前にある「塔の島」を上流から写しました。「塔の島」は島といっても中州です。鎌倉時代に作られたという石塔もあり、夏には鵜飼が行われ観光名所となっています。写真1を見ると塔の島の一部が水に浸かっており、宇治川の水量が多いことが分かるでしょう。もちろん「塔の島」は数日間立ち入り禁止となっていましたし、鵜飼もおこなわれていません。
数日前に台風が梅雨前線を刺激したことにより降った大雨で琵琶湖の水位が高くなり、これを下げるために、琵琶湖の出口にある瀬田川洗堰では全開放流をしていたので宇治川の流量が多くなっています。川の流れは「一秒間に何トン」と表現します。このときは多分、数百トン(500トン/秒以上)流れていました。
このような流れの中に落ちたら、どんな泳ぎの達人でも助からないでしょう。どうか皆さん、増水した川に入ったり近づいたりしないで下さい。川は上流で降った雨でも増水します。

No.29

2003.6 Categories

みなづきを食べると思い出す暑さ

 京都の和菓子屋さんでは夏になると「みなづき」が売られます。6月の別名の水無月にちなむ「みなづき」は、6月30日水無月祓の神事にちなんで食べられるそうです。台は白外郎(しろういろう)で氷を表し、三角に切ってあります。小片でも氷を口にすると夏やせしないといわれているのでこれにちなんでいます。台の上には小豆を散らしてありますが、これは悪魔払いの意であると伝えられています。
あるいは、6月1日に京都の北・氷室から貯蔵しておいた氷を宮中に奉納する習わしがあったことから、その氷片にあこがれた町の人々が、氷の形に模して白外郎で三角の土台を作ったともいわれており、小豆は魔よけの意が込められているそうです。最近では、黒砂糖を混ぜた茶色のものや抹茶を混ぜた深緑色のものも作られます。写真は普通(?)のみなづきと黒砂糖を混ぜたみなづきです。
みなづきを初めて見たのは、大阪に越した翌年(1993年)、京都北野天満宮から上七軒、千本釈迦堂付近を歩き、その近くの和菓子屋に入ったときでした。そこで何を買ったか覚えていませんが、とにかく暑かったので、何か冷たいものを求めたと思います。
ところが、近所の人がその店を訪れ、みなづきを買って行きました。今までの感覚だと、「暑いときは氷やアイスクリームなど何か冷たい物」あるいは「水羊羹」でした。「この暑いのによくあのようなグニャグニャしたものを食べる気になるな。」と思って見ていましたが、何か気になった和菓子でした。
みなづきを初めて食べたのは、1994年6月26日でした。この日は昼から宇治にある三室戸寺に午後から紫陽花(アジサイ)を見に行きました。太平洋高気圧に午後から覆われ、三室戸で電車を降りたら、頭がクラクラするような暑さでした。駅前の和菓子屋さんでみなづきと缶入りのお茶を買い、丘の中腹にある三室戸寺まで歩きました。駅から寺までは緩やかな上り坂で、距離にして約1km、徒歩約20分です。太陽がやたらとまぶしくて暑く、えらく疲れたことを覚えています。
お寺に着き、本堂の近くで買ってきたお茶を飲み、みなづきを食べて生き返りました。みなづきは薄甘でしつこい甘さでなく、これほど美味しいものと初めて知り、京都の暑さに合った和菓子だとつくづく感じました。それから夏になると、みなづきをよく買うようになりました。これを食べて元気が出たので、宇治まで歩き宇治川を挟んで平等院のほぼ対岸にある興聖寺まで歩き、京阪の宇治駅まで戻って帰りました。
(図1)はこの年の6月下旬の京都と宇治に近い京田辺のアメダスの日最高気温グラフで、(図2)は6月26日のやはり京都と京田辺の気温の変化です。(図1)からわかるように、25日までは日最高気温が30℃以下の日が続いています。たしかに26日の午前中までは過ごしやすかったです。気温を見ると、12時まで30℃以下でが、13時から30℃を越えています。何時に家を出たか忘れましたが、ちょうどこの頃から歩き始めたのだろうと思います。


(図1)1994年6月下旬の日最高気温のグラフ

(図2)1994年6月26日の気温の変化

1994年の梅雨は雨が少なく、6月16日に岩船寺に紫陽花(アジサイ)を見に行きましたが、天気も良く紫陽花はかさかさした感じでした。三室戸寺は山門をくぐってから本堂に行くまでの斜面にたくさんの紫陽花が植えられていますが、ここでも少ない雨が災いしあまりきれいに咲いておらず、干からびた感じの花もありました。
1994年はこのあとどんな天候だったか覚えているでしょうか。近畿地方では7月10日に例年よりも約1週間早く梅雨明けとなり、夏は連日のように最高気温が35℃を越える晴天となり、京都では最高気温が39.8℃になった日もありました。もちろん雨はほとんど降りません。このため、日本一大きな湖で関西の重要な水瓶である琵琶湖の水はどんどん減り、基準とする水位よりも約120cmも低い水位となり取水制限も行われました。日本各地も水不足で、四国では早明浦ダムで湖底が現れたのもご記憶にある方もいるかと思います。

No.28

2003.6 Categories梅雨

飽和水蒸気圧を変えて洗濯物を乾かす

 水を暖めながら塩や砂糖を溶かすと、濃い塩水や砂糖水が早くできます。これは水が温度により塩や砂糖を溶かす能力に違いがあるからです。空気も温度により水蒸気を含む能力に違いがあります。空気も水と同じで、(表1)に示したように、温度が高ければ多量の水蒸気を含むことができ、温度が低ければ水蒸気を含むことができる量が少なくなります。

(表1)1m3の空気に含み得る最大水蒸気量(水蒸気の重さ)
温度(℃)302520151050-5-10-15-20-25-30
水蒸気量(g)302317139753.42.41.61.10.70.5

(表1)では水蒸気を重さで表しましたが、気象の分野では空気が含んでいる水蒸気の量を圧力で表し、水蒸気圧といいます。空気が温度により目一杯水蒸気を含める能力のことはやはり圧力で表し、飽和水蒸気圧といいます。一般にいわれている湿度は相対湿度といい、現在含まれている水蒸気の量(水蒸気圧)をその温度の空気が含むことができる水蒸気の量(飽和水蒸気圧)で割って100をかけた値です。数式で示すと式1となります。

一般に濃度は、例えば塩水の場合なら、一定量の塩水とそれに含まれる塩の量の比で表されますが、相対湿度はある温度の空気が含んでいる水蒸気の量とその温度の空気が含むことができる水蒸気の量との比という違いがあります。
雨が降った日や湿度が高い日は、ジメジメした感じとなり、洗濯物もなかなか乾かないのは、空気が含むことができる水蒸気量の能力の限界に近い量の水蒸気を含んでいるためです。
しかし、ジメジメしたときでもストーブを焚くなどして温度を上げるとカラッとした感じになることを経験したことがありませんか。このとき、空気中の水蒸気の量には変化がありませんが、水蒸気圧は変わっていませんが温度が上がったため飽和水蒸気圧が高まり、湿度が低くなったからです。式1の分母だけが大きくなったからです。
独身時代、三陸の釜石で生活したことがあります。三陸の梅雨期には太陽が顔を出さないで、シトシトと雨が降ったり霧がかかったりの天気が何日も続き、時には暖房がほしくなるほど肌寒い日さえあります。どんよりとした鉛色の空が続くと太陽や青空も恋しくなりますが、とにかく毎日出てくる洗濯物が乾かないのにはまいりました。
ある日、「石油ストーブをつければ早く乾くな。」とふと思いついてやってみました。「でも、ストーブを使うと暑くなりすぎるから。」とも思い、窓を開けて扇風機を回したところ、洗濯物が乾いただけでなく、ジメジメしていた部屋の中も乾燥したのには驚きました。飽和水蒸気圧が温度により変わるのですから、その能力を高めさえすれば(式1で説明するならば分母だけを大きくすれば)空気は乾燥し、カラッとした感じになることはわかっていたはずですが、これほどまで効果があるとは思いませんでした。

もっともこの方法は、梅雨期でも気温が低い三陸地方だからストーブを使えましたが、これを南の地方で行ったら乾燥しても熱くてかなわないでしょうから、除湿機能付きのクーラーを使った方が快適でしょう。

No.26

2003.5 Categoriesその他

日本最初の天気予報

 休日にこそなっていませんが、世の中には様々な記念日があります。例えば「鮭」の作りの部分から11月11日は鮭の日です。6月は子供の頃から10日が「ときの記念日」として覚えていました。ところで6月1日は何の記念日だか知っていますか。気象記念日です。

気象記念日は、1875年(明治8年)6月1日に明治政府の手により東京気象台として東京で1日3回の気象と地震の観測が開始されたことから、1942年(昭和17年)に制定されました。場所は内務省地理寮構内、現在の東京都港区虎ノ門にあるホテルオークラのあたりです。ちなみに、わが国最初の気象観測所は北海道函館に気候測量所(函館海洋気象台の前身)が1872年(明治5年)8月26日に開設されています。
ところで、日本で最初の天気予報は、E.クニッピングにより1884年(明治17年)6月1日に毎日3回全国の天気予報が発表されています。その天気予報(日本で初めての天気予報)は次のようなものです。

●午前6時
 全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ
 (Variable winds, Changeable, some rain.)
●午後2時
 変リ易キ天気ニシテ風位定ラス 且雨降ル地方モアルベシ
 (Changeable; variable winds, local rain.)
●午後9時
 中部及ビ西部ハ晴或ハ好天気ナルベシ 北部ノ一部ハ天気定ラス 一部ハ曇天又ハ烟霧ナルベシ
 (Fair to fine in central Japan and the W, partly unsettled, cloudy or hazy in the N.)

E.クニッピング(Erwin Rudolf Theobald Knipping)はプロシア(現在のドイツ)の航海士で、開成学校(現在の東京大学)の教師として来日しました。その後船長や船員を教育する機関に移りましたが、在任中に来襲した3個の台風ついて、船舶から収集した気象報告や、地方測候所や灯台の気象資料をもとに調査をし、日本でも電信を利用した暴風警報の開始を促進する建白書を明治政府に提出しています。それまでに暴風警報発表に対する建白書は何回か出されていましたが、この建白書は受け入れられクニッピングは1882年(明治15年)から気象台に入ることとなりました。
気象台に入ったクニッピングは気圧の測定単位を「インチ」から「ミリメートル」に変えるように提案し、その後、気圧の単位は「mmHg」が使用されています。さらに全国一斉の定時観測も実施しています。このころは日本に標準時はなく、測候所があった京都の時刻が気象観測の標準時として使用されました。
また地方測候所からデータを電信を使って収集するため、気象電報コードも作製しています。気象電報の収集が開始されたのは1883年(明治16年)2月16日午前6時からで、同じ年の3月1日から東京気象台で初めて天気図を作製し、毎日印刷配布が開始されました。当時の印刷技術は石版印刷で、クニッピングが解析した天気図を元に、2名の画伯により版下が描かれています。
彼の目的であった暴風警報はやはり同じ年の5月26日に発表されており、これが日本で初めての暴風警報です。このときの気象状況は、全国的に気温が急昇して気圧は下降し、四国南岸に中心を持つ745mmHg(993hPa)の低気圧によって、四国、九州方面は風が強く、高知の24時間雨量は102mmとなっています。
天気予報の話に戻りますが、クニッピングは毎日の天気予報を発表することまでは考えていませんでした。「天気図で全般的な天気状況を知ってその変化がわかれば、今後天気がどう変化するかわかるはずだ。その結果緊急事態が予想されると警報が発表されるものだろう。となると、警報も天気予報の一部にすぎないのではないか。」というのが外部からの見方でした。クニッピングもこの考えに押され、1884年(明治17年)5月10日にようやく承認された1日3回の気象電報の開始を待って、天気予報の発表を決意しました。

現在は、ゾンデを使った高層観測、気象衛星、レーダーなど、全世界のデータを利用してコンピューターで計算された結果から天気予報が出されています。しかし、当時は気象観測といっても、地上観測だけですからデータ量や気象に対する知識や予報技術に格段の差があることは確かです。明治の人の勇気と災害を防ぎたいという熱意には頭が下がります。

No.25

2003.5 Categories

メカブ

 岩手県三陸沿岸の春はワカメの収穫時期です。収穫されたワカメは、根っこに当たる部分を切り落とし、湯通ししてから筋を取り去り塩をまぶして、塩蔵ワカメとして出荷されます。この時期、浜に行くとあちこちでこの作業が行われています。

私は、独身時代の一時期、釜石市で自炊生活をしましたが、ここのワカメは柔らかくて美味しく、釜石駅の近くにある橋上市場に行くと、当時一袋200円から300円で売られており、常備菜として切らしたことがありませんでした。実家に帰るときは必ずこれをおみやげに買い、とても喜ばれました。
ところで、ワカメは茶色っぽい色で広げると大きな縦長の天狗の団扇のような形をしています。根元には両側に羽状の広がった肉厚のひだの部分があります。ここをメカブといい、胞子ができる堅い部分です。ちなみに、一般にワカメとして売られているのは葉っぱ(?)の部分です。
ワカメの収穫時期になると、釜石では細くきざんだメカブが売られており、独身時代にもよく買いました。メカブにさっと湯をかけると、色がきれいな緑色に変わります。これに醤油や酢醤油を適当にかけてからかき混ぜて粘りを出し、ご飯の上にかけて食べていました。さわやかな磯の香りが口いっぱいに広がり、これだけでご飯を何杯もお代わりできそうです。
この時期釜石市内のそば屋では、メカブをソバの上に載せたメカブソバがあり、これもよく食べました。「岩手の食」という本によると、細くきざんだメカブを大きめのさじで山盛り二盃ぐらいお椀に入れて熱いみそ汁を注ぎ、さらに赤ジソやきざんだネギを入れると風味が良くなると書いてありました。なぜ、メカブを煮ないで熱いみそ汁を注ぐかというと、メカブは煮すぎると渋みが出るからだそうです。
もちろん春には生のメカブも売られていますが、これを買うようになったのは結婚してからでした。海草はもともとぬるぬるしていますね。メカブも堅くてぬめりもあり、細く切るのは一苦労ですが、妻はメカブの味が気に入ったようで、出回るとよく買いもとめ大変な思いをしながらきざんでいました。土地の人は表面を少し乾かしてから切る人もいるそうです。逆に洗ってからではぬめりがひどくなり、切る苦労がさらに増してしまいます。
最近はスーパーで一年中細く切り湯通しされたメカブが小さなパックに入って売られており、我が家でもこれをよく買っています。メカブはあっさりした味なので、晩酌後のご飯のおかずには最適です。メカブは健康食品としての効能もあれこれあるようですが、その方は専門のホームページなどにまかせましょう。

No.20

2003.1 Categories

寒鱈の思い出

 各地の気温の月平均値をみると、1月と2月が最も低くなっています。北国では、空から降ってくる物は白い物、雪がほとんどです。ところで、雪に関係した魚があるのはご存じですね。「タラ」です。魚へんに雪と書いて「タラ」と読みますが、まさに雪の降る頃、真冬が鱈のもっとも美味しい時期です。この魚は、「たらふく食べる」という言葉にも使われるくらい大食いで、腹を開けると胃袋の中に消化しきれていない魚が入っていることもあるそうです。
1月、2月には釜石(岩手県)の魚屋にはでっぷりと腹の膨れた鱈がたくさん並びます。子供の頃食べた鱈というと、湯豆腐に入っている切り身の塩鱈だけでしたから、初めて鱈の刺身を食べたときの旨かったこと!!
独身時代の一部を釜石で過ごし、初めて自炊生活を経験しました。とにかく魚が新鮮で美味しいので魚屋にはよく通いました。最初のうちは買いに行くたびに魚の名前を聞き、味からも魚の名前を覚えました。おかげで、店の人ともすっかり顔なじみとなりました。店に並ぶ全ての魚を食べようと思ったのですが、とうとう買えなかった物が2つあります。ヒラメと、蟹(毛蟹)です。それを買おうとしたら、「高いよ、高いよ」と言うので、とうとう買わずじまいでした。
しかし鰹や鱈のような大型の魚を半身、あるいは一匹買うときは、一回に払う金額が大きくても買わせてくれました。鱈の刺身が食べたくなると半身を買い、刺身を1人前作ってもらい、残りは切り身にしてもらっていました。釜石市内には清酒工場があり、柔らかい酒粕が手にはいるので、切り身は粕漬けにして後から楽しみます。
ところがある時、鱈を一匹まるまる買ってしまったことがあります。もちろん、刺身一人前と、残りは切り身にしてもらいました。しかし、魚屋さんからは鱈のアラも渡されてしまいました。アラはどう料理してよいかわからないので、アパートの部屋を借りていた大家さんに渡したところ、アラ汁を作って持って来てくれました。「味噌仕立ての田舎風だよ」と言われましたが、大根、人参、長ネギ、豆腐などが入っていて、とても美味しかったです。もともと魚のアラ汁は好きでしたが、鱈は刺身よ
りこのアラ汁の方が旨かったのを覚えています。
釜石など三陸沿岸で雪が降る気圧配置には2つのタイプがあります。一つは、東京などで雪が降る時と同じで、太平洋側を低気圧が発達しながら通過するときです(図1)。一方、大陸に強い高気圧が現れ、オホーツク海や千島列島で低気圧が発達したときを西高東低の気圧配置、あるいは冬型の気圧配置といいます(図2)。冬型の気圧配置は何日も続くことが多いですが、この間、寒気の塊が次々と通ります。この寒気の塊の通過により、三陸でも雪が降り、雪が降る前は、ゾクゾクとするような寒さを感じます。その後は強い西よりの風が吹きます。


(図1)太平洋側を低気圧が発達しながら
通過するときの気圧配置
2003年1月24日午前9時

(図2)西高東低の気圧配置
2003年1月29日午前9時

こんな日の夜、鱈のアラ汁は魚のだしが利いて、色々な野菜が入って栄養バランスもとれ、体が温まるし、最高のご馳走でした。

No.18

2002.12 Categories

腹に響いた除夜の鐘

 大阪に転勤した最初の年です。両親が、関西で年末年始を過ごしたいとやってきました。年末は、大阪の黒門市場と京都の錦市場に正月用品の買い物に行きました。どちらの店にも正月用品が並べられ、買い物客でごった返していました。特に錦市場は、身動きができないぐらいの人です。 大晦日の年が変わる頃、各地の除夜の鐘を撞く様子が放送されますが、その中で知恩院(京都府)の鐘を撞く場面は印象的でした。この日本一の大鐘を撞くときの様子は、いろいろな写真にも紹介されていますが、大勢の若い僧が棒に付けられた縄を引き、親綱を持つ僧が体を投げ出すようにして撞いています。これを実際に見たかったし、両親にも見せたかったので、大晦日の夜は京阪四条駅から歩いて、八坂神社(八坂さん)から円山公園の下を通って知恩院へと向かいました。人の多いこと・・・


(写真1)知恩院本堂
この建物の右上に日本一の「鐘」がある。大晦日は
人で埋めつくされ身動きができない。

(写真2)日本一のつり鐘

八坂さんからはおけら参りの人が縄におけらからの火を付けて、くるくる回して出てきます。これも、テレビで見ていたので、印象的な光景でした。八坂さんから知恩院へ向かう道も大勢の人でぎゅうぎゅうでした。
ようやく知恩院の本堂の前にある大きな広場(写真1)に着きましたが、すっかり人で埋め尽くされていて身動きが取れず、とうとう大鐘(写真2)の近くに行けませんでした。鐘のそばに行くのは諦め、本堂の前の広場で鐘の音を聞いていました。 お寺の鐘の音というと、「ゴ~ン」という表現になりますが、この鐘の音は違います。「ズ~ン」という響きで、その響きを耳だけでなく腹で聞いたというような雰囲気でした。この響きは文字では表せません。
帰りは、三門の方へ向かいました。知恩院の本堂は丘の上にあるので、大きな三門から入ると、その後ろには一段の落差が大きい急な石段があります。しかし、真っ暗な中、足を滑らせたら危険だからでしょう、そこは通行止めとなっていたので、脇にある緩やかな石段を下りて帰りました。大勢の人の中を歩いている間、寒さを感じませんでしたが、さすがに冬の夜、家に帰り着いたときは体が冷えきっていました。
関西では年末になると、奈良の大仏のお見拭いをはじめ、有名な神社仏閣の大掃除の様子が放送されます。そのなかには、知恩院の大鐘の試し撞きの様子もあります。この大鐘を撞くには、撞き手の息が揃わないとうまくいかず、転がってしまう僧の様子も写されます。一度行って、本番を見ることは大変なのがわかったので、試し撞きの時に行こうと思っていましたが、とうとうそのチャンスはありませんでした。

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